有芸村から決死の木炭輸送(S18.7.14新岩手日報)

【歴史の断片】昭和18年、命懸けの「木炭輸送」—岩泉・旧有芸村の絶壁をゆく—

戦後80年が経過しようとする今、当時の地方紙を紐解くと、教科書には載っていない庶民の壮絶な「戦い」が見えてきます。

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今回ご紹介するのは、昭和18年(1943年)7月14日付の「新岩手日報」。そこには、現在の岩手県下閉伊郡岩泉町にあたる、旧「有芸村(うげいむら)」での過酷な木炭輸送の様子が記されています。


「眼が廻るやうな絶壁」をゆくトラック

記事の見出しには、現代の私たちが絶句するような言葉が並んでいます。

『眼が廻るやうな絶壁を 木炭積んで輸送』
『玆(ここ)にも増産に協力する戦士あり』

掲載されている写真(紙面中央左)をご覧ください。深い山々を背景に、今にも崩れ落ちそうな細い山道を、木炭を山積みにしたトラックが慎重に進んでいます。

当時はもちろんガードレールなど存在しません。一歩ハンドル操作を誤れば、そのまま数百メートル下の谷底へ真っ逆さま。文字通り「命懸け」のハンドル捌きが求められる現場でした。

燃料不足を支えた岩手の「黒いダイヤ」

戦時下の日本において、木炭は軍用・民生用を問わず、国家を動かす極めて重要なエネルギー源でした。岩手県は古くから質の高い木炭の産地として知られていましたが、戦争激化に伴い、さらなる増産と迅速な輸送が至上命題となっていました。

記事では、この険しい山道を往来する人々を「木炭戦士」と呼び、銃後(じゅうご)を守る彼らの奮闘を称えています。

  • 「夏の深山に敢闘する木炭戦士(第五報)」
  • 「輸送の困難を克服して、一路増産に協力…」

といった記述からは、村全体が「燃料供給」という重責を担い、必死に戦っていた様子が伝わってきます。

編集後記:道に刻まれた歴史

現在、岩泉町有芸地区から市街地や沿岸部へ向かう道は整備されています。しかし、当時のこの「絶壁の道」がどこを指しているのかを想像すると、その過酷さに改めて背筋が伸びる思いがします。

私たちが何気なく利用している現在のインフラは、こうした先人たちの筆舌に尽くしがたい苦労、そして献身の上に築かれたもの。黄色く変色した一枚の新聞紙は、その事実を静かに、しかし力強く物語っています。

出典:昭和18年(1943年)7月14日発行「新岩手日報」紙面より


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