d宮古・下閉伊郡 3月 17日 1956 牡蠣むきで教科書代を稼ぐ漁村(昭和31年3月17日) 昭和31年3月17日の河北新報岩手版より。 宮古港から巡航船で30分のところにある宮越白浜部落は、75世帯、人口750名の小さな漁村である。 ここにある白浜小学校には、78名の児童が通っているが、漁業の不振から部落自体の経済自体がひどくなり、600円から1000円の教科書代すら捻出できない状況であっ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 2月 12日 1956 宮古の公益質屋は残念な大繁盛(昭和31年2月12日) 昭和31年2月12日の河北新報岩手版より。 宮古市の公益質屋は、この時期、悲しいことに大繁盛していた。 お客様は、漁閑期に入った零細漁民や日雇い労働者であった。 また、秋のスルメ漁の不漁もこのことに輪をかけた。 質草は、服が多かったと言う。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2月 4日 1956 紫波郡では天然氷切り出しの最盛期(昭和31年2月4日) 昭和31年2月4日の河北新報岩手版より。 紫波郡は天然氷の産地であったが、その積み出しに大忙しであった。 ただ、三陸地方が不漁であること、人造氷に押されて苦しかったようではある。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 19日 1956 久慈港も予算獲得合戦に参入(昭和31年1月19日) 昭和31年1月21日のデイリー東北より。 太平洋の荒波に面する久慈港は、漁船の難破事故が多かった。 そこで、堀込式の港にすることで、この状況を解消しようと言う計画があった。しかし、予算がないことにはどうにもならない。 同じような港湾整備の要求は、全国から43の港から上がっていた。 しかし、そのような… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 15日 1956 久慈や種市の漁港で次々と施設拡充(昭和31年1月15日) 昭和31年1月15日のデーリー東北より。 サバ漁で昭和29年来活気を帯びてきた久慈や種市の漁港では、魚市場開設や冷蔵車の新設が目立っている。 八木港では状況が魚市場や冷凍会社を開設し、宿戸や小子内では漁協連合の共同市場を開設したと言う。 また、野田村の漁協でも農林中金に38,000,000円の融資を… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 12日 1956 種市町八木港に「消えない導灯」を(昭和31年1月12日) 昭和31年1月12日のデーリー東北より。 種市町の八木港では、導灯(航路標識)が消えていたために、前年11月に漁船の遭難事故も発生していた。 そこで、第二管区海上保安本部灯台部では、この導灯を消えないものにする工事をしていた。 また、種市町が昭和29年から陳情運動を行っていた「八木灯台」は予算的に難… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 8日 1956 躍動する宮古港(昭和31年1月8日) 昭和31年1月8日の岩手日報より。 宮古市内を空撮した画像。 この時期、宮古港は3000トン岸壁から延長して10000トン岸壁の建設工事が始まっている時期だった。 また、閉伊川の加工を磯鶏海岸に切り替える計画もあったという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1月 4日 1956 南部鼻曲がり鮭で有名な津軽石川で川開き(昭和31年1月4日) 昭和31年1月5日の岩手日報より。 「南部鼻曲がり鮭」で有名な津軽石川では、津軽石村から宮古市になって初めての川開きが行われた。 有名なイベントなのでカメラの放列と共に川開きとなった。 … 続きを読む
m県外・参考 11月 29日 1955 岩手の水産物が東京のデパートで好評(昭和30年11月29日) 昭和30年11月29日の岩手日報より。 東京は上野松坂屋で、北海道・東北の海産物を集めた「北日本水産物大会」を行っていた。 岩手県からは以下のものを出品していた。 だし昆布(田老町) とろろ昆布(田老町) おたふくするめ(山田町) のしいか(宮古市) ホヤの塩辛(越喜来村) 焼ウニ(重茂村) 一塩ア… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 8月 27日 1955 大船渡港近くの飲み屋が「カンバンだよ」と断ったらカツオ漁師に袋だたき(昭和30年8月27日) 昭和30年8月28日の河北新報岩手版より。 8月26日から27日に日付の変わった頃のこと。 三重県三木浦港からはるばる大船渡港まで入ってきたカツオ漁船の漁師が、港に近い飲み屋に入ろうとした。 店の親父は「悪いね。もうカンバンなんだよ」 「何だと!?」「何だとでねえこのー?」 口論になってしまい、しま… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8月 25日 1955 マグロやメカで埋まる豊漁の釜石港(昭和30年8月25日) 昭和30年8月25日の河北新報岩手版より。 釜石港の沖合のスルメ、鯖、マグロ、メカ漁は最盛期に入っており、水揚げ高は700~800万円にも達していたという。 8月22日は回来船や地元船のスルメやサバ船で43400貫あまり、金額にして900万円であったという。 ところで、ここで言う「メカ… 続きを読む
c久慈・九戸郡 6月 4日 1955 シケが幸いしワカメで賑わう九戸沿岸(昭和30年6月4日) 昭和30年6月4日のデーリー東北より。 岩手県九戸郡沿岸では、ワカメ採取の最盛期を迎えていたと言う。 5月28日が続いたシケの影響で、ワカメが岸に打ち上げられているため種市の小子内浜ではナギを持って部落民が早出で3500貫ほどを拾いあげたと言う。 55〜6歳の老漁夫は、水から上がって焚き火に当たりな… 続きを読む
l全県 9月 18日 1954 台風14号にサンマ漁船は戦々恐々(昭和29年9月18日) 昭和29年9月18日の岩手日報より。 太平洋の沖合にある台風14号が東日本にも接近しそうだと言うことで、サンマ漁船は戦々恐々としていた。 ちなみに、この次の台風15号は「洞爺丸台風」となる。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 16日 1954 ウニは魚市場を通さず直接取引で 昭和29年4月16日の読売新聞岩手版より。 ウニの採取は釜石湾の初夏の風物詩であったという。 4月1日が口開けで、11日から水揚げされたが浜相場はカラ付きで70~80円であったという。 この年から、ウニの採取者が零細漁民であるということから釜石魚市場を通さず直接販売が認められ、漁民は大喜びだったとい… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 10日 1954 宮古魚市場で3貫500匁の大マス 宮古魚市場で、体重3貫500匁という大マスが水揚げされ、5,000円で売れたという。 ちなみに以下のサイトによれば、3貫500匁とは13.125kgのことらしい。 昭和29年4月12日読売新聞岩手版より。… 続きを読む
備考※1 3月 1日 1954 【参考】第五福龍丸がビキニ環礁で「死の灰」被爆 静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福龍丸」がビキニ環礁で被爆。 岩手とは直接関係のないニュースではあるが時代相を示す参考として。 https://youtu.be/UxKkhzZmw9g … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12月 1日 1953 釜石では魚の加工施設が不足(S28.12.1岩手日報) 釜石は製鉄の街であるとともに水産都市であるが、魚の加工施設が少ないことが問題になっていたようである。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 5月 18日 1953 下閉伊郡の漁場ではブリ・マグロの最盛期 昭和28年5月13日の読売新聞岩手版より。 下閉伊郡沿岸の漁場ではブリ・マグロの最盛期となっていた。 重茂村漁協の根滝漁場では30~40貫内外の大マグロが2~3本ずつ漁獲したほか、1貫500匁という大きなブリも水揚げされたという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 21日 1952 釜石港も宮古港もサンマ漁船でいっぱい(S27.9.21岩手日報) サンマ漁のシーズンとなり、岩手からも船団が漁場を目指す。 釜石港も宮古港も賑わっている。… 続きを読む
l全県 9月 16日 1952 キャベツ・さんまの輸送シーズンに貨物列車増発(昭和27年9月16日) キャベツなどの秋野菜、サンマなどの秋魚、そして冬に向かって木炭などの輸送の為に、盛鉄局では昭和27年10月1日~12月末の間に、貨物列車を増発することを9月16日に決定した。 内訳は以下の通り。 東北本線 3往復 八戸線 1往復 大船渡線 1往復 10月~12月までの間、現在の出荷量より以下の増加が… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 9月 16日 1952 宮古港の朝(昭和27年9月16日) 昭和27年9月16日の岩手日報より。 「朝の生態」と言うシリーズものの写真記事があったようである。 今回は宮古港で、朝も明けないうちから、あみ等の準備を始めててむ出量に次々と出かけていくことが描かれている。 そして、寮から戻ってこようとする頃には、今度はモッコを担いだ行商の女性たちが港にぞろぞろと来… 続きを読む
l全県 9月 11日 1952 収穫の秋にあの手この手の貯蓄合戦(昭和27年9月11日) 昭和27年9月11日の岩手日報より。 秋は農家の収穫や秋漁の水揚げで現金が多く飛び回り、各金融機関では、貯蓄の誘致に懸命であった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7月 20日 1951 海の記念日は盛岡市内の魚屋で「魚まつり」!(昭和26年7月20日) 昭和26年7月20日の「夕刊いわて」より。 7月20日は昔から「海の記念日」だったようで、盛岡市内の魚屋ではキャンペーン。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 12月 3日 1950 気仙郡気仙町の長部港は土砂堆積ではしけも入れず(昭和25年12月3日) 昭和25年12月3日の岩手新報より。 気仙郡気仙町の長部港は、気仙川の土砂の堆積で、はしけも入れない状態になっていたのだと言う。 また、桟橋も昭和8年に建造された木製のものしかなかったのだと言う。 それで、漁船も仕方なく気仙港や細浦港に入るしかなかったのだと言う。 &nb… 続きを読む
i一関・西磐井郡 9月 14日 1948 大船渡線を仙台管理部から盛岡管理部に移管なんて反対だ! 昭和23年9月14日の岩手新報より。 盛岡鉄道管理局が発足する昭和25年より以前は、東北の鉄道は仙台鉄道局の管轄であった。 その中でも「仙台管理部」「盛岡管理部」とあったのだが、大船渡線はこの時点では仙台管理部の管轄であった。 これを、盛岡管理部に移管しようという話になったのだが、沿線の市町村会がこ… 続きを読む