漁業

釜石職安ではオート三輪を広報車にして人集め(昭和34年8月21日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石職安ではオート三輪を広報車にして人集め(昭和34年8月21日)

昭和34年8月21日の岩手東海新聞より。 水産業界は漁期が来て、釜石製鉄所も好景気ということで釜石公共職業安定所には求人票が殺到、オート三輪を広報車にして人集めに駆り出されることになった。 求人票は600〜700名分あり、内訳は以下の通りであったという。 釜石製鉄所作業員 70名 海陸運送 男子 1…
釜石港で持て余されるマンボウ(昭和34年7月20日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石港で持て余されるマンボウ(昭和34年7月20日)

昭和34年7月20日の岩手東海新聞より。 当時、マンボウは「マンボウザメ」と呼ばれており、「季節魚として人気が高い」ものではあったが、過食部である白身は全体の3分の1しかなく、それ以外は捨てるしかなかったのだ。 捨てるとは言っても何しろ20kg〜100kgという巨大な魚である。 海に捨てれば港湾法に…
琵琶湖の稚アユを甲子川と鵜住居川に放流(昭和34年5月18日) e釜石・遠野・上閉伊郡

琵琶湖の稚アユを甲子川と鵜住居川に放流(昭和34年5月18日)

昭和34年5月19日の岩手日報より。 釜石市と釜石淡水漁業組合は、5月18日の正午に琵琶湖から送られたアユ4万尾を、甲子川に3万尾、鵜住居川に1万尾放流した。 釜石までは貨車で水温10度に保たれてきたが、長旅で弱り果てていたという。 解禁となる7月下旬には15~6センチとなろう、と。   …
大船渡魚市場に久しぶりにマグロ水揚げ(昭和34年2月5日) k大船渡・陸前高田・気仙郡

大船渡魚市場に久しぶりにマグロ水揚げ(昭和34年2月5日)

昭和34年2月7日の河北新報より。 大船渡魚市場では、2月5日に久しぶりにマグロの水揚げがあったという。 マグロを釣り上げたのは三陸村のはえ縄漁船で、八丈島近海で漁獲したという。 内訳としてはメバチマグロ1500本、メカジキマグロ60本で計22000キロ、金額にして150万円。 この時期の10キロ当…
久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日) c久慈・九戸郡

久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日)

昭和32年10月19日のデーリー東北より。 北日本港湾都市市長団の三役として、中共の北京市の招きで10月23日に羽田国際空港から香港経由で旅立つ久慈市の山内市長は、10月17日13時市役所前から市長専用車で市役所前を出発した。 市長は「1ヵ月の間、を留守にしますが、皆さん元気で勤めをお願いします。戦…
八戸の漁船3隻が岩手県警の警備船に捕まる(昭和32年10月17日) c久慈・九戸郡

八戸の漁船3隻が岩手県警の警備船に捕まる(昭和32年10月17日)

昭和32年10月18日のデーリー東北より。 海上パトロールしていた岩手県警の警備船「さんりく」は、九戸海域に出没していた密漁船を逮捕して、久慈の玉の脇港に引き上げた。 これらの密漁船は、久慈市宇部町三崎トドが岩 3マイル海上の野田湾海域で、禁止漁業の底引き網を使用して、ナメタガレイなどを密漁していた…
久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日) c久慈・九戸郡

久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日)

昭和32年10月17日のデーリー東北より。 北京市長の招きで、「北日本港湾都市市長団」の三役として久慈市長も中国に行くこととなった。 それに対して、10月15日、市役所別館にて壮行会が150人を集めて行われた。 市長は「漁業、水産物の交易とコルホーズが中国ではどのようになっているかを見極めたい。また…
久慈の久喜浜ではイワシが豊漁でシメ粕で埋まる(昭和32年10月3日) c久慈・九戸郡

久慈の久喜浜ではイワシが豊漁でシメ粕で埋まる(昭和32年10月3日)

昭和32年10月3日のデーリー東北より。 おなじ10月3日の紙面では、となりの種市の八木港がサバの不漁となっていた時、久慈の久喜浜ではイワシが豊漁であった。 連日1万貫もの水揚げがあり、魚油を絞った後に肥料に使うシメ粕の加工に主婦や子供達は忙しかった。 シメカスは1貫230円前後で売れるのだという。…
種市の八木港ではサバが不漁(昭和32年10月3日) c久慈・九戸郡

種市の八木港ではサバが不漁(昭和32年10月3日)

昭和32年10月3日のデーリー東北より。 三陸沿岸は、この時期最も魚の取れるシーズンであるはずが、種市の八木漁港ではサバが全く獲れないじょうきょうであったという。 他県のサバ釣り船団も日本海の方に行ってしまった。 サンマは好調なのだが、八木港は水揚げ港に指定されておらず入港する船は無し。 製氷工場も…
久慈港の堀込式港湾工事(昭和32年10月3日) c久慈・九戸郡

久慈港の堀込式港湾工事(昭和32年10月3日)

昭和32年10月3日のデーリー東北より。 久慈港の堀込工事は、宮城建設によって進められていた。 この工事の土台となるテトラポット投入は、県内ではじめてケーブルクレーンからの投下によって行われることとなった。 (それまではどんな方法で行われていたのかは書いていない) この方法であれば、どんな荒海でも関…
サケマスはえなわ漁船解禁へ d宮古・下閉伊郡

サケマスはえなわ漁船解禁へ

昭和32年4月19日の岩手日報より。 翌4月20日から、サケ・マスのはえなわ漁が解禁になるというので宮古などの漁港が沸き立っている。 宮古港では49隻、山田港では11隻、田老港では5隻と、前年より5隻減少しているといが、100万貫を期待しているという。 記事では「資材が少なく、しかも安全操業ができて…
北洋船団が函館を出港(昭和31年4月28日) m県外・参考

北洋船団が函館を出港(昭和31年4月28日)

昭和31年4月29日の岩手日報より。 日ソ漁業交渉が難航する中、北洋サケ・マス船団はベーリング海に向けて函館を出港して行った。 この中には岩手県の漁船も多く含まれている。 ちなみに、日ソ漁業条約はこの5月に成立することとなった。           …
宮古の閉伊川河口は干潮時は船が横倒し(昭和31年3月22日) d宮古・下閉伊郡

宮古の閉伊川河口は干潮時は船が横倒し(昭和31年3月22日)

昭和31年3月22日の河北新報岩手版より。 宮古市築地通りの閉伊川河口の漁船係留場は、閉伊川から流入する土砂のために、年々水深が浅くなり、干潮時になれば係留中の漁船が度々横倒しになると言う危険な状態となっていた。 この辺は、常に出漁前後の漁船数十隻が係留されている場所だった。 この付近は、昭和23年…
牡蠣むきで教科書代を稼ぐ漁村(昭和31年3月17日) d宮古・下閉伊郡

牡蠣むきで教科書代を稼ぐ漁村(昭和31年3月17日)

昭和31年3月17日の河北新報岩手版より。 宮古港から巡航船で30分のところにある宮越白浜部落は、75世帯、人口750名の小さな漁村である。 ここにある白浜小学校には、78名の児童が通っているが、漁業の不振から部落自体の経済自体がひどくなり、600円から1000円の教科書代すら捻出できない状況であっ…
久慈港も予算獲得合戦に参入(昭和31年1月19日) c久慈・九戸郡

久慈港も予算獲得合戦に参入(昭和31年1月19日)

昭和31年1月21日のデイリー東北より。 太平洋の荒波に面する久慈港は、漁船の難破事故が多かった。 そこで、堀込式の港にすることで、この状況を解消しようと言う計画があった。しかし、予算がないことにはどうにもならない。 同じような港湾整備の要求は、全国から43の港から上がっていた。 しかし、そのような…