e釜石・遠野・上閉伊郡 12 6月 1959 江刺〜遠野のバス開通(昭和34年6月12日) 昭和34年6月11日の岩手民声新聞より。 江刺と遠野を結ぶ、県道小友線のバス開通式が、江刺市と遠野市の関係者が集まり、遠野市の小友中学校で行われた。 この県道自体が、「小友線道路組合」の手によって完成し、今年の3月に県道に編入をされていたと言う経緯がある。 そして、この県道にバス路線を開通させるよう… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12 6月 1959 人口増加する釜石では山を切り崩して住宅地に(昭和34年6月12日) 昭和34年6月12日の岩手東海新聞より。 製鉄所や鉱山で賑わう釜石は人口増加していたが、いかんせん平地は少なく、住宅は山でも切り崩さないと建てることはできなかったのである。 それで、釜石高校の向かいの山を切り崩して住宅を造成していた。 釜石市の住宅地は、甲子川沿いにどんどん上がっていっているようだっ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11 6月 1959 「ジーゼルカー」が釜石市内を行進(昭和34年6月11日) 昭和34年6月12日の岩手東海新聞より。 この年の7月1日、初めてのディーゼルカーが走るということで、釜石市内ではそのディーゼルカーに摸したハリボテ等で市内を行進した。 ところで、写真は橋上市場の大渡町側だろうか。 右は釜石駅方向、左は甲子川の下流方向であると思われる。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 5 6月 1959 釜石市内のオートバイ店「50ccバイク48500円!」(昭和34年6月5日) 昭和34年6月5日の岩手東海新聞より。 釜石市内のモーターサイクル店では50ccバイクが48500円とな。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 26 5月 1959 釜石市内の帆布業者「トラックの防水シートは米軍払い下げ品がお安いですよ!」(昭和34年5月26日) 昭和34年5月26日の岩手東海新聞の広告欄より。 釜石市内の帆布業者が、梅雨の時期を見込んでトラックの荷台の防水シートに米軍の払い下げ品を特価販売している旨を宣伝している。 この時期、米軍の払い下げ品はどこで手に入れたのだろう。 横須賀か、あるいは三沢か。 あるいは仙台の苦竹・・・? … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 25 5月 1959 釜石国際劇場で「女ひとり」「第五戦線 遠い道」「白人部隊撃滅」を公開(昭和34年5月25日) 昭和34年5月25日の岩手東海新聞の広告欄より。 釜石の国際劇場では、「女ひとり」と「第五戦線 遠い道」と「白人部隊撃滅」の3本立てで公開。 「女ひとり」(原題:Jeanne Eagles)は。1957年米コロムビア映画で、原題通りブロードウェイの名女優ジーン・イーグルスの半世紀。 「第五戦線 遠い… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 25 5月 1959 朝鮮総連釜石支部「帰国問題の早期実現を」(昭和34年5月25日) 昭和34年5月26日の岩手東海新聞より。 朝鮮総連釜石支部は5月25日、南町の教育会館で第5次大会を開催した。 この時期、多数の釜石在住の朝鮮人が詰めかけたが、もし帰国問題が実現すればこれが最後の大会になる人もいるということで、寂しそうな雰囲気もあったようだ。 そのような中で「帰国問題の早期実現」を… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 23 5月 1959 仙人道路の開通を期して岩手東海新聞社の新社屋建設中(昭和34年5月23日) 昭和34年5月23日の岩手東海新聞より。 この時期の釜石は、花巻に通じる仙人道路の開通を待ち望んでいる時期であった。 その仙人道路の開通に合わせて、地元の岩手東海新聞も社屋を新しくし、版型もタブロイド判からブランケット判にする予定であった。 5月22日にはコンクリート注入工事に入っている。 完成の暁… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 23 5月 1959 キャンプ用の貸しテントは1日60円(昭和34年5月23日) 昭和34年5月23日の岩手東海新聞より。 釜石市内の頒布会社では、キャンプや集会用にテントを貸し出している。 1人用は1日で60円であると言う。 そのほかのテントも大小に応じて。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 22 5月 1959 ラジオ岩手のテレビ放送開始に備え釜石でも五葉山に中継設備(昭和34年5月22日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 ラジオ岩手では、この時点で6月のテレビ放送の開始を予定していた。 そこで、釜石でも松倉の奥の」五葉山系に無人のサーチライトステーションを設置するという。 ラジオ岩手で中継設備を設置すれば、NHKでも顧客開拓のために設置することになることが予想され、8月にはテ… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 22 5月 1959 釜石信用金庫「あなたのお金で工場が動き、店が賑う」(昭和34年5月22日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞の広告欄より。 釜石信用金庫が広告を出しているが、コピーは「あなたのお金で工場が動き、店が賑う」。 まあまさにその通りではあるんだけど・・・ … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 21 5月 1959 新日鉄釜石ラグビー部が発足(昭和34年5月21日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石製鉄所のラグビー部が「全国一の強豪チームを目指して」5月21日から小佐野球場外に設けられた特設ラグビー場で練習を開始した。 初練習には岩手県ラグビー協会八幡正会長やコーチ2名も来て熱心にコーチするという念の入りようだった。 創部メンバーは以下の通り。 増… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 20 5月 1959 釜石国際映画劇場で「めまい」「大戦争」「月の出の脱走」3本立てで公開!(昭和34年5月20日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石国際映画劇場では「めまい」「大戦争」「月の出の脱走」3本立てで公開する。 「めまい」(原題:VERTIGO)は米パラマウント映画で日本初公開は昭和33年10月26日。 「大戦争」(原題:In Love and War)は米20世紀FOXによる映画で日本初… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 20 5月 1959 釜石・錦館で「私は貝になりたい」「男が爆発する」「惜春鳥」を公開!(昭和34年5月20日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石の錦館では「私は貝になりたい」「男が爆発する」「惜春鳥」を公開する。 「私は貝になりたい」は言わずと知れたフランキー堺の主演で初公開は昭和34年4月12日で東宝配給。 「男が爆発する」は日活配給で初公開は昭和34年4月28日。石原裕次郎や北原三枝が出演。… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 19 5月 1959 釜石市内電話増設ご案内(昭和34年5月19日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石市内の店舗で電話が開通したところが広告を出している。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 18 5月 1959 釜石の五ノ橋で岩手東部バスが危機一髪(昭和34年5月18日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石駅を出て右手の中妻方面に行く際、最初にわたる橋は「五ノ橋」であるが、この五ノ橋でバスが危うく転落しそうになった。 5月18日の昼下がり、東前発小川社宅行きの岩手東部バスは、釜石市の中心部から住宅地の小川に向け、買い物帰りの親子連れ等30名を乗せて走ってい… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 5月 1959 盛岡~釜石に運行予定のディーゼル準急車両が盛岡客貨車区に配属(昭和34年5月18日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 この年の7月には、盛岡~花巻~釜石にディーゼル準急が運行開始する予定であったが、そのディーゼル車両のうち1両が盛岡客貨車区に配属されたという。 釜石線のディーゼル準急は、上野~日光の準急「日光」や、盛岡~福島の準急「やまびこ」と同じキハ55形3両が充てられる… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 18 5月 1959 琵琶湖の稚アユを甲子川と鵜住居川に放流(昭和34年5月18日) 昭和34年5月19日の岩手日報より。 釜石市と釜石淡水漁業組合は、5月18日の正午に琵琶湖から送られたアユ4万尾を、甲子川に3万尾、鵜住居川に1万尾放流した。 釜石までは貨車で水温10度に保たれてきたが、長旅で弱り果てていたという。 解禁となる7月下旬には15~6センチとなろう、と。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 17 5月 1959 釜石一中で運動会(昭和34年5月17日) 昭和34年5月19日の岩手東海新聞より。 釜石一中の運動会は5月17日に開催された。 この日は雨だったようで、開会式は2時間遅れ11時となった。 種目は43種目あり、中には「ミサイルレース」「仙人峠開通記念」などと伊種目もあったようである。 この年の9月には、遠野や花巻に直通する仙人トンネルの開通が… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 17 5月 1959 釜石港に石炭輸送のリベリア船が入港(昭和34年5月17日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 製鉄所の高炉が盛んだった釜石港では外国船の出入りも盛んだったようで、リベリア船のアインド・スキイパー号がひときわ目立っていたという。 この船はアメリカ産の石炭を13,500トン積んでノーフォーク港から来たのだという。 5月17日に入港し、22日に出港とのこと… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 12 5月 1959 「県内一の老朽校舎」戦時建築の釜石高校を改築して(昭和34年5月12日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石高校の校舎は「県内一の老朽校舎」と言われていた。 そんな老朽校舎はどれだけ古いのか? 大正6年に建築され「白堊城」と呼ばれた盛岡一高の校舎より古い? 釜石高校の校舎は昭和18年の建築で築16年。 「老朽化」と言うほどではないが、昭和20年の艦砲射撃にも遭… 続きを読む
m県外・参考 5 4月 1959 東北放送テレビで「たのしい科学」(提供:八幡製鉄)(昭和34年4月5日) 昭和34年4月5日の河北新報より。 この年の4月1日、東北で初めての民放テレビとして、仙台では東北放送が放送を開始していた。 岩手県内でも県南の一関や陸前高田ぐらいでは視聴が可能であったかもしれない。 それで河北新報の岩手版で番組案内が掲載されていたのだろう。 八幡製鉄の提供で「たのしい科学」という… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 4月 1959 皇太子殿下の御成婚を控え、街は「日の丸」ブーム(昭和34年4月5日) 昭和34年4月5日の河北新報より。 敗戦してからというもの、「日の丸」の国旗は日陰者のような存在であったそうな。 しかし、皇太子殿下の御成婚では盛岡市内の染物屋に商工会議所などから注文が舞い込み、街の家々に日の丸が翻るのだとか。 盛岡市内の商店主は、「この日の丸ブームは大正天皇の御大典の半分ぐらい、… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 4月 1959 大槌町須賀海岸は潮干狩りのシーズン(昭和34年4月1日) 昭和34年4月1日の読売新聞岩手版より。 大槌町の須賀海岸では潮干狩りのシーズンになっていた。 それで潮干狩り列車やバスの増発するほどであったという。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 30 3月 1959 一関映劇は昼は洋画専門館、夜は成人映画館(昭和34年3月30日) 昭和34年3月31日の岩手報知より。 この時期、一関映画劇場では「哀愁物語」「正午に銃殺の鐘が鳴る」の洋画二本立てで上映していた。 しかしそれは昼の話。 夜は、成人映画を二本立てで上映していたようである。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 28 3月 1959 一関の夜間私立高校・関城工業高校が二次募集(昭和34年3月28日) 昭和34年3月28日の岩手報知より。 一関の私立夜間高校である関城工業高校が二次募集をかけている。 経営母体は一関学院なので、後年の一関商工高校、令和4年現在の一関学院高校となる。 同じ経営母体の一関商業高校と合併して「一関商工高校」となるのは昭和38年のこと。 この時点で、公立の一関工業高校は開校… 続きを読む
i一関・西磐井郡 28 3月 1959 一関市内各映画館の封切映画案内(昭和34年3月28日) 昭和34年3月28日の岩手報知より。 一関市内の各映画館のプレイガイドを掲載している。 この時期は6館あったらしい。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 25 3月 1959 盛岡東映で「新吾十番勝負」「東京べらんめえ娘」封切(昭和34年3月25日) 昭和34年3月25日の河北新報岩手版より。 盛岡東映では「新吾十番勝負」と「東京べらんめえ娘」を封切する。 いずれも初公開は昭和34年3月17日なので、盛岡での封切は1週間のタイムラグ。 「新吾十番勝負」は当時朝日新聞に連載中していた川口松太郎の小説を映画化したもので、主演は大川橋蔵。 「東京べらん… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 24 3月 1959 県教育会館で中卒就職者の激励会(昭和34年3月24日) 昭和34年3月25日の河北新報岩手版より。 この年に中学校を卒業して社会に出る就職者の為に、3月24日13時から県教育会館で「就職者激励会」が行われた。 就職者700名、県職安課長、山本盛岡市長など来賓が多数列席した。 山本盛岡市長からは「立派な社会人になるよう修行してもらいたい」という激励のあいさ… 続きを読む