岩手日報の一面が全部広告(S3.9.5岩手日報)
昭和3年9月5日の岩手日報紙面には、一面全体が広告で埋め尽くされるという、現代の感覚からすれば異例ともいえる紙面構成が見られる。このような構成は、全国紙ではまず見られないが、地方紙では当時まま見られたものであった。とくに季節の変わり目や地元有力商店の節目の時期には、こうした「一面全面広告」という編成が特例的に採用されることがあった。
この日の紙面では、右書きで大々的に掲載されている「松屋」(読み間違えやすいが「屋松」ではなく「松屋」)の創業記念大売出し広告が中央を占めており、盛岡の中ノ橋通にあった呉服店が秋の需要を見越して展開した大型販促の様子がうかがえる。肴町(旧呉服町)周辺が金融と商業の中心地であった当時、このような売出しは町をあげたイベントでもあったのだろう。
注目すべきは、地元企業に限らず、東京や大阪の企業の広告が紙面に多数掲載されている点である。右下には「クラブ化粧品」の広告が大きく取られており、そこには「大阪堂ビル特販部限定販売」の文字も見える。これは、地元では手に入らない都会的な商品が、あえて地方紙で宣伝されていた好例であり、地方の女性たちの消費意識の中に“東京・大阪への憧れ”が明確に存在していたことを物語っている。
そのクラブ化粧品の広告には、「輸入防止・輸出奨励」という文言が並ぶ。国産品を用いて国際競争力を高め、外国製品への依存を減らそうとする当時の国家的な気運を背景に、化粧品メーカーもそうした潮流に沿った広告表現を用いていたことが分かる。「進化倶産国民化粧品」というスローガンからは、女性の美と国民経済が結びつけられていた昭和初期の世相がにじみ出ている。
一方、右上には「ドッジ・ブラザーズ(DODGE BROTHERS)」の自動車広告が掲載されている。昭和3年は、まさにドッジがアメリカのクライスラー社に買収された年であり、この広告はちょうどその転換期にあたる。広告主である「安全自動車株式会社(東京市芝区)」は、日本国内での販売網を全国に広げようとしていた時期であり、こうした舶来車の広告が岩手の地方紙に掲載されること自体が、近代化と都市文化への志向を象徴している。
また、紙面の中段には「黒澤尻病院」の広告も大きく掲載されている。この病院は昭和3年5月に創設されたばかりの施設であり、現在の「北上済生会病院」の前身にあたる。黒澤尻町(現・北上市)において初めての近代的私立病院として誕生し、のちに建物と設備一切が済生会に寄付され、昭和11年には「済生会黒澤尻病院」となった。創設間もない時期に岩手日報紙上で大きく広告を出したのは、単なる宣伝というよりも、地域医療の新しい拠点としての存在を広く知らしめようとする強い意志の表れとも読める。
これらの広告を通して見えてくるのは、昭和初期の岩手が決して閉ざされた田舎町ではなく、モダン文化や都市型経済への接続を常に模索し、外部との結びつきの中で自己を表現しようとしていた地域であったということである。一面を広告が覆うこの紙面は、そうした「地方の都市化と生活文化の変容」を映す鏡でもあった。