角田屋事件(盛岡の中学生誘拐事件)(昭和21年8月24日)

終戦から丸1年過ぎた昭和21年8月24日のこと。

盛岡市内では比較的大規模な商店である大通の角田屋で、盛岡中学(現:盛岡一高)1年生の息子がなぜか帰ってこない。

どういうことかと思ったら、翌25日に知らない誰かから角田屋に手紙が届いた。

御子息は鄭重にお預りした。御安心あれ。この事件をさわいで友人知己或は警察当局へ通報するかしないかは貴家の随意であり、貴家の聰明さにお任せします。唯我等に対して絶対敵意なき度量と好意と、落付きを失わないときにのみ御子息は御返しします。左記を厳守の上落付いて御履行のこと。妥協なし。

(記)
一、時 八月二十九日十八時四十八分
一、所 於上野行車中
一、持参金.五万円(令息翌日返還)又は三万円(令息一ケ月後返還)
一、持参者令息の母堂のみ
一、他は全部御在宅のこと
一、持参金引渡の際絶対談話を禁ず
右各項相違ありたるとき及び愚なる手段又は策を弄せられたる場合、仮借なく令息は即死、貴家全員は時をみて個々に「死」をもって酬います。この点堅く御約束します。当日は決死隊員を受領に派遣する。派遣員は余に忠誠を誓う部下であり、決死派遣を命じます。万一派遣員に事故を貴方が与えた場合、同じく前文同様「死」を以て報復す。但し貴方金員持参人は絶対保護す。BS長

以上了知の上二十八日付岩手新報紙上へ承諾の意味にかえ「洋品雑貨各種品揃へ角田屋」の広告を出されよ。

お断り。太平洋上の一島嶼不肖小生を隊長とする決死隊員六十内名のうち、負傷生き残り二十四名を迎え入れた敗戦後の態度はどうであったか、冷酷そのものであった。四十余名は今なお余を慕い行をともにして不遇をしのび苦楽を続けている。ここに我々は意を決し、劃期的事業を始めんとしてこれが資金四十万円を穏便裡に約二十名の人々に融資をたのむも承諾するもの一人もなし、この無理解、非人情我々を見殺しにする以上断乎非常手段をもってしても全国に亘り初念の貫徹を計らんと決意したるものなり。まことに貴家に対しお気の毒なるも割当前記の金額を融資あらんことを切望す。事業は概ね五ヶ年にて目鼻つくものなり、未だ詳細発表の機に非らざるも、結果として断じて借用金は返済申す。堅く我々の正義感を信じられよ。只恨むらくは手段の非常なることを。御子息は健在なり。

つまり子供を誘拐したということである。
犯行グループは食い詰めた復員者らしい。

母親は顔面蒼白になって手紙に見入っている。
この時、角田屋では警察官を下宿させていたが、「警察に連絡したら殺す」と読めなくもないニュアンスである。
下宿させている彼に気付かれるわけにはいかない。

・・・が、警察もそこはプロである。

この家の息子がいなくなった。
母親が手紙を青くなって読んでいる。

「どうしたのす?」
「お願い!警察の上司には言わないでけで!」
「あー分がりあんした」

とはいえ、この事件は重大である。
まさか上司に報告しないわけにはいかない。かといってこの母親の手前もある。
すべては秘密裏に進行することにした。

果たして8月28日の岩手新報(岩手日報とは別)に、脅迫状の指示通り「洋品雑貨各種品揃へ角田屋」の広告が出された。

そして次は8月29日の上野行の列車で現金の受け渡しが行われるはず。
そこで犯人を捕まえないといけない。

・・・とはいえ、母親にしてみれば「警察は事件を知らない」ということになっているのである。
ではどうやって母親の顔を認知する?

そこで一計を案じ、角田屋の前で「警察のトラックが故障した」という芝居を演じることにした。

「おい、トラックが壊れだぞ」
「仕方ねえなゃ・・・」
「まだ直らねえが?」

店のおかみ、つまり誘拐された中学生の母親は店先で「警察も大変そうねえ」という顔で眺めている。

(あの顔を覚えたか?)
(はい)

いよいよ8月29日、盛岡駅。
母親は風呂敷包みをもって上野行きの列車を待っている。

警察も、秘密裏に岩手公園の梅林で準備をしていた。
もし盛岡市内のチンピラが犯人であれば、いつもの警察官なら顔が割れている可能性がある。
そこで、警察練習所から警察官を編成することにした。

そして盛岡駅から106列車は出発する。
列車番号から行くと急行列車だろうか。

おそらくは盛岡~仙台あたりがヤマと踏んだが、結局何も起こらなかった。

そして翌8月30日10:50、列車は上野駅に到着。

上野駅の人ごみの中で少年が母親に近づいていく。
そしてその風呂敷包みを浮浪児に渡した・・・!

あの少年だ。

「おい、ちょっと来い。これはどういうことだ?」
「知りませんよ。湯島天神で男がちょっと使われてくれっていうから来ただけです」
「だったらその男の所に案内してもらおうか」
「いいですけど・・」

湯島天神では男が木の下で新聞を読んでいる。

「この男です」
見ると、さっきお使いにやった浮浪児は警察と一緒にいるではないか!

「やばい!」
もう逃げるしかない。
天神坂を一目散に下って上野広小路へ。
そこへ警察官が折り重なる。

ついに命運は尽きた。

そして男は盛岡警察署に連れて帰られた。

「どういうことか話してもらおうか」
「私は引揚者の一団で、隊長は別にいるんです。私は金を受け取る役目をしただけです」
「で、その隊長はどこにいるんだ?」
「それが私には・・・」
「で、子供はどこにいる?」
「隊長がリュックサックに詰めて銚子の沖合に投げ捨てたんではないでしょうか」

ああ・・・こりゃ子供は生きてないな・・・
警察官一同にはそんな思いが去来した。

「それにしたって、なんでお前はそんな大それたことをした?」
「私はこれまで、台湾で新聞記者をしていました。しかし敗戦で引き上げてきて、長坂村の親戚の所に寄せてもらったんですが、何をやっても仕事にならないんです。もう食い詰めていたんです。
それで、多少は取引のあった盛岡の角田屋の子供を呼んで『事業資金をお父さんに融通してもらってよ』と頼んでも相手にしてもらえず、むしろ騒がれました。それで、もう殺すしかないと思って殺してしまったんです」
「殺したのか!」

脅迫状を送った時点ではすでに殺されていたということ。

死体は、高松の池の近くの南部家墓地のあたりの笹薮から見つかった。
10月8日のことである。

昭和22年3月11日、盛岡地方裁判所で無期懲役の判決が下った。
犯人はこれに対し控訴し、昭和22年6月19日には仙台高等裁判所で懲役20年に減刑となった。

そして宮城刑務所で服役していたが、昭和29年1月3日に心臓麻痺で42歳で獄死したのであった。

 

・・・で、その後のこと。

この誘拐された中学生の後輩となる、盛岡一高の昭和40年代の同窓生の掲示板を見てみると、この南部家墓地の近くの死体発見現場は一種の「怪談スポット」となっていたようである。

 

 


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