岩手「ヤミの女」事情(S24.5.18新岩手日報)
昭和24年5月18日付の新岩手日報は、戦後復興の只中にあった岩手の社会情勢を鮮烈に伝えています。当時の盛岡警察署、現在の盛岡東署が実施した風紀取締週間の記録によれば、夜の街に立つ女性は盛岡で約200名、釜石で40名、宮古で20名から30名に及んでいたといいます。この記事で最も目を引くのは、彼女たちの動機を分析した冷徹な視点です。

記事の見出しには、ヤミの女は享楽から堕ちると掲げられ、お洒落を楽しみたい、映画を観たいといった虚栄心が動機であると厳しく指摘されています。しかし紙面を精読すれば、そこには単なる享楽だけでは片付けられない戦後の悲劇が滲み出ています。見出しの勢いとは裏腹に、記事の中盤では、未亡人は生活苦からやっているものもあり、子女を養っている者もいるという切実な事実が認められているからです。
現代の視点から見れば、この構造は決して過去の話ではありません。お洒落や自由を求めて華やかな世界に身を投じる若者の姿は、どこか現代のキャバクラ嬢や、社会の隙間に居場所を求めて街頭に立つ少女たちの姿と重なり合います。一方で、守るべき家族のためにギリギリの選択を迫られる未亡人の姿もあり、そこにはいつの時代も変わらぬ女性の貧困と生存の闘いが見て取れます。
特に当時の釜石は、東北で唯一外国船が入港する国際港としての活気に沸いていました。その飲食街に身を置く女性たちの心理として、鍋釜の底を洗っているよりは、美衣美食して指の爪を赤く染め、チョウチョみたいに面白く飛び回った方がいいという言葉が紹介されています。ここで引き合いに出される「鍋釜の底を洗う」仕事とは、当時の女性の主要な職業であった「女中」奉公などの地道な家事労働を指しているのでしょう。今では聞き慣れない言葉となりましたが、当時はそれが当たり前の、しかし決して楽ではない女性の日常でした。
一方で、同じ紙面には盛岡駅前から続く悪路を整備する、消えろ盛岡砂漠という記事が並んでいます。埃の舞う砂利道が近代的な舗装道路へと生まれ変わろうとする光景は、戦後復興の希望そのものでした。しかし、道が綺麗に整えられていくそのすぐ傍らで、生活苦に喘ぐ母親や、厳しい奉公生活を嫌って爪を赤く染める女性たちが夜の闇に消えていったという事実は、私たちが知る華やかな戦後史の裏側に、決して拭いきれない深い影があったことを物語っています。
当時の警察の筆致は、彼女たちを堕落と断じ、更生を促すものでした。しかし70数年の時を経て読み直すとき、そこに見えるのは、生存への執着と自由への憧れの間で揺れ動きながら、激動の時代を必死に生き抜こうとした岩手の女性たちの生々しい姿に他なりません。時代が変わっても、人々の渇望と社会の歪みが街頭に影を落とす構図は、驚くほど似通っています。