新しくできる「東北銀行」に寄せる県内各地の期待(S25.7.2岩手新報)

昭和25年7月2日の岩手新報の紙面を埋め尽くす熱狂的な記述からは、当時の岩手県民が東北銀行の設立にいかに大きな希望を託していたかが痛いほど伝わってきます。終戦から5年が経過したこの時期、日本経済はドッジ・ラインによる強烈な引き締め政策の渦中にあり、深刻な現金不足とデフレが地方の隅々まで襲っていました。特に岩手のような地方都市においては、中央の大銀行から見れば融資のリスクが高く、地元から集まった預金が東京の大企業や復興資金へと吸い上げられてしまうという構造的な問題に直面していました。

当時、岩手県内には1県1行主義の流れを汲む岩手殖産銀行、現在の岩手銀行が既に存在していましたが、戦後の混乱期においてその経営姿勢は非常に慎重にならざるを得ず、多くの中小企業や商店主にとっては敷居が高い存在でした。また、後の北日本銀行となる興産無尽などの無尽会社は、庶民の相互扶助には適していたものの、規模の大きな設備投資や輸出入を伴う高度な商業取引に対応するには限界がありました。こうした閉塞感の中で、地元の経済人や有志たちが自ら株主となって立ち上げたのが東北銀行でした。

紙面の見出しにある中央の融資を切望という言葉は、東京の資本に依存せざるを得ない現状を打破し、自分たちの預金を自分たちの町の復興のために使いたいという、資金の地産地消への強い願いを象徴しています。水沢、福岡、宮古釜石といった県内各地の代表者が実名で寄せたコメントには、どこも同じように、既存の金融機関では手が届かなかった中小企業への円滑な資金供給を切に願う声が溢れています。それは単なる新しい銀行の誕生を祝うものではなく、岩手の商工業が経済的な自立を勝ち取るための悲願でもありました。

この記事の傍らには、南部鉄瓶が存続の危機にあり、輸出契約によってようやく息を吹き返そうとしている現状が記されています。こうした地場産業を救い、地域の誇りを次世代へ繋ぐためにも、自分たちの事情を深く理解してくれる、みんなの銀行が必要だったのです。朝鮮戦争の勃発からわずか1週間後という、国際情勢が再び緊迫し始めた不透明な時代において、岩手の人々が東北銀行の設立に向けて示した情熱は、自らの手で郷土を立て直そうとする戦後復興の執念そのものであったといえます。現在の街並みに当たり前のように存在する銀行の看板は、こうした先人たちの切実な叫びと、中央に依存しない経済基盤を築こうとした努力の積み重ねの上に立っているのです。


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