花巻空港反対同盟と調印(S53.9.16)

花巻空港の拡張問題が、実に八年越しで一つの節目を迎えたのは、昭和53年9月16日のことだった。花巻市西宮野目の宮野目公民館で、県と花巻空港拡張反対期成同盟会との会談が開かれ、双方が「円満解決」を確認する文書に調印したのである。

この問題は、県が昭和46年、航空需要の増加を見込み、ジェット機が発着可能な二千メートル滑走路を新設する拡張計画を打ち出したことに始まる。県議会では調査費が可決され、花巻市議会でも計画受け入れを示唆する答弁がなされたが、地元地権者の反発は強かった。翌年には反対期成同盟会が結成され、革新政党や労働団体の支援を受けながら、用地取得や測量への抗議を含む反対運動が続けられた。

県は一時、地権者の多数が同意していると発表したが、同盟会側は反対者が多数いると反論。昭和50年に入ると、県労連を中心とした拡張反対県民会議が発足し、県議会も空港問題で紛糾するなど、事態は長期の膠着状態に陥った。県と住民側が一つの公共事業をめぐって七年以上も対立を続けた例は、県政史上でも前例のないことだった。

転機となったのは昭和53年4月。千田知事が反対期成同盟会に直接会談を申し入れたことだった。藤田万之助花巻市長、伊藤祐武美市議会議長が仲介役となり、6月3日、実に一年半ぶりの公式な話し合いが実現する。席上、千田知事は「計画を進める段階で地権者の理解を得られなかった点は自らの不徳」と率直に謝罪し、騒音や大気汚染などの公害問題については環境基準を守ることで合意がなされた。この姿勢は、強硬と評されがちだった県の対応が大きく転換した象徴的な出来事だった。

そして9月16日、最終的な会談の場で、反対期成同盟会は県が示した確認書を条件に、個々の用地取得交渉に応じることを正式に認めた。確認書では、県がこれまでの用地取得過程に配慮を欠いた点を認めて遺憾の意を表明すること、国への事業認定について当面保留を要請し、状況に応じて取り下げも検討すること、問題が生じた場合には誠意をもって協議することなどが盛り込まれ、同盟会側の主張がほぼ全面的に受け入れられる形となった。

こうして表向きには円満解決に至ったものの、問題が完全に消えたわけではない。長年にわたる反対闘争は地域社会に深い溝を残し、かつて顔見知りだった住民同士の間にも、わだかまりが生じていた。代替地の取得をめぐっても「同盟会の会員だった人のためには土地を出したくない」という声が上がるなど、用地取得は必ずしも順調ではない。

それでも、拡張工事は着実に進められつつある。昭和55年5月時点で予定面積の約九割が取得され、現在は千二百メートルの代替滑走路の路盤工事に入っている。花巻空港では東京・大阪便に加え、札幌便も就航し、利用率は高い。六十人乗りのYS-11から、百三十人級のDC-9クラスへの移行は、地域の強い期待を集めている。

七年に及ぶ対立を、力による決着ではなく話し合いで収拾したことは、県政にとって大きな教訓となった。一方で、初動のつまずきが最後まで尾を引いている現実もまた否定できない。残された用地取得と工事をいかに円滑に進め、地域の亀裂をどう修復していくのか。花巻空港拡張は、解決後もなお、行政の手腕が問われ続ける事業なのである。


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