五千円札の顔が新渡戸稲造に(S59.11.1)

昭和59年11月1日、一万円・五千円・千円の紙幣が新デザインに切り替えられ、五千円札には盛岡市出身の国際的思想家・新渡戸稲造が採用された。従来の聖徳太子・伊藤博文など政治家から、福沢諭吉・夏目漱石・新渡戸稲造という明治期の文化人トリオに変更されたもので、偽造防止や省資源・効率化のため券面も小型化された。

五千円札の肖像が新渡戸と発表されると、盛岡市と十和田市が「二号券」獲得を巡って激しく競い合った。十和田市は新渡戸の祖父・伝が当地の開拓の祖であり、肖像画も同市所蔵の写真をもとにしたことを根拠に、58年6月に早々と日銀に申請。一方、盛岡市は新渡戸の生誕地であり、58年10月に没後50周年式典や銅像建立、顕彰団体の設立などを行うも、新札申請は59年5月と出遅れた。

最終的に日銀は、一号券「A000001A」を日銀貨幣博物館に、盛岡市に「A000002A(A2A)」、十和田市に「A000001B(A1B)」を贈ると発表し、「どちらも同格の二号券」との見解を示した。盛岡市ではA2A券が公民館に展示され、のちに建設される先人文化記念館に保存されることになった。

新札切り替え当日は金融機関に長蛇の列ができ、五千円札は特に人気を集めた。盛岡市では新札記念講演会や「新渡戸商戦」と銘打ったセール、新渡戸記念入場券の発売などで盛り上がり、十和田市でも市民大祝賀会が開催された。また新札発行直後には、印刷ミス紙幣の話題も相次いで報じられた。

その後、盛岡市は新渡戸終焉の地であるカナダ・ビクトリア市と姉妹都市提携を締結し、現地で新五千円札を贈呈。これはビクトリア市民にも大いに喜ばれた。新札発行を契機に新渡戸の業績も再評価され、多数の関連書籍が出版された。彼は日本初の農学博士であり、教育者・国際人としての功績が、この新五千円札に象徴された形となった。

 


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です