川井村に米軍機墜落(S63.9.2)

昭和63(1988)年9月、全国で問題化していた在日米軍戦闘機の低空訓練は、ついに本県でも重大事故となって表面化した。下閉伊郡の川井村で、米軍戦闘機が山林に墜落。住民が抱いてきた不安と恐怖は、現実のものとなった。

事故が起きたのは9月2日午前9時31分ごろ。川井村小国字中沢の立丸峠付近、標高約600メートルの急斜面に広がる雑木林に、三沢基地所属の米軍戦闘機が突っ込むようにして墜落・炎上した。パイロットは直前にパラシュートで脱出し、航空自衛隊の救難ヘリにより救助されて三沢基地に収容された。幸い人的被害はなかったが、現場から約3.5キロ北には小学校があり、最寄りの民家までも約500メートル。一歩間違えば大惨事になりかねない状況だった。

米軍によれば、事故機は北海道から東北一帯で実施されていた大規模な空対空訓練の最中だった。仮想敵機の侵攻や基地攻撃を想定し、低空から空対空・空対地飛行を繰り返す内容で、1日あたり約100回にも及ぶという。悪天候で中止が続いたのち再開された矢先の事故だった。

現場対応では、日米安保体制の“見えない壁”が浮き彫りになった。県警は直ちに事故対策本部を設置し共同捜査を申し入れたが、現場は米軍主導で管理され、自衛隊員や日本側関係者は一定範囲外への退去を求められた。事故原因についても、米軍は「飛行中にエンジンが停止し、再始動しなかった」との説明にとどまり、詳細な調査報告は長く日本側に届かなかった。

背景には、日米地位協定と刑事特別法の制約がある。捜査権は日本側にあるとされながら、実際には事情聴取や機体処理は米軍の判断が優先されるのが通例で、今回も同様だった。国内で起きた事故でありながら、事後処理の主導権を日本が握れない現実は、多くの割り切れない感情を残した。

県内ではこの年、低空飛行による被害や騒音への苦情が相次いでいた。窓ガラス破損などの実害も出ており、住民の不安は蓄積していた。航空法が定める最低高度規定も、安保条約に基づき米軍機には適用除外となるため、日本側ができるのは自粛要請が精いっぱいだった。

事故後、県や地元自治体、労働団体、政党などが相次いで再発防止を求めた。米軍司令官は謝罪に訪れたものの、「訓練は平和維持のために必要」として、継続の方針を示した。機体の回収は11日に完了したが、低空飛行訓練が内包する危険性を住民に強く印象づける出来事となった。

本県では、昭和46年に雫石町上空で起きた航空機衝突事故という深い記憶もある。あの悲劇以降、訓練の在り方が問われ続けてきたが、今回の米軍機墜落は、主権と安全、そして地域住民の安心をどう守るのかという課題を、改めて突きつけた出来事だったと言えるだろう。


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