貧弱な俺たちの胸を叩き続けてくれ

今日の更新より

昨日のブログ村・ブログランキング

ブログ村はPVポイント210、順位は9125位。

今日のGoogle search consoleより

カバレッジの有効数は63。

今日のとど鉄

あの東日本大震災から今日で11年。

あの日、自分は東京の会社で会議中だった。
かなり大きい揺れが来たので、その会議は中止となり、それぞれの部署に戻ることとなった。
震源がどこか見てみると、宮城県沖だと言うではないか!
両親は無事だろうか。メールで一言だけ「応答せよ」とだけメールを打った。

返事がすぐに来た。
母「今、裏山に逃げています」
父「仕事のため釜石の唐丹にいます」
さしあたって生命の危険は無いようだった。

しかし、テレビでは釜石の魚市場が津波に触られている映像が映ってきた。
これは!

自分も含め兄弟は皆、岩手を離れ首都圏や東海地方にいる。
ほどなくして三陸地方との連絡が途絶えてしまった。
大騒ぎになっていたが、発災直後にメールの返事がすぐに来たことを伝えたら、さしあたって安心していた。

次に連絡が取れたのは、かれこれ2日後の日曜日のことである。
秋葉原の喫茶店はいつもと違って全くガラガラ。

そこでぼんやりコーヒーを飲んでいると電話。
「息子さんでいらっしゃいますか。私はお父さんの同僚のものです。私は今盛岡から電話してますが、遠野で別れお父さんは車で大槌に戻りました」

はっきり言って、東京でできることなど何もない。
テレビでは〽️ポポポポ〜ン と繰り返し流れてきた。

日本人なら「リンゴの唄」で終戦直後を思い浮かべるように、「あいさつの魔法」で震災を思い出すのだ。

4月に入り、避難所となっていた大槌高校も授業が再開されることとなった。
それで、避難民はいくつかの候補のうち両親は花巻の大沢温泉に移されることになった。

一度行ったことがあるが、その時のどこかの被災者の会話が非常に耳に残っている。

「昨日父さんの死体が見つかったの」
「よかったね」

普通なら「よかったね」と言える会話ではない。
しかし、大津波という状況で、家族が行方不明になって死体すら見つからないという話ばかりだったのだ。

三陸の子供たちは、家や学校で、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震の話をことごとに言い伝えられてきた。
三陸で生きるという事は、津波と共に生きると言うことなのだろうか。

あの津波で見る影もなく破壊し尽くされた山田線も、今や三陸鉄道リアス線として復活している。

 


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です