貧弱な俺たちの胸を叩き続けてくれ
今日の更新より
- 釜石市内の住所を「大字釜石第○地割」から「○○町○丁目」に変更したい(昭和34年5月20日)
- 仙人道路の開通を期して岩手東海新聞社の新社屋建設中(昭和34年5月23日)
- 釜石線・山田線のディーゼルカーは環状化で(昭和34年5月22日)
- 「県内一の老朽校舎」戦時建築の釜石高校を改築して(昭和34年5月12日)
- 釜石映画案内(昭和34年5月19日)
- 釜石・錦館で「私は貝になりたい」「男が爆発する」「惜春鳥」を公開!(昭和34年5月20日)
- 琵琶湖の稚アユを甲子川と鵜住居川に放流(昭和34年5月18日)
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今日のGoogle search consoleより
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今日のとど鉄
あの東日本大震災から今日で11年。
東日本大震災から半月後、2011年4月3日撮影
①実家「ただいま」
②大槌駅
③大槌町中央公民館には全国から救援が来た
④石川県金沢市から送られた救援物資の中に入っていた幼稚園児の手紙 pic.twitter.com/EblXY3Xofl— とどろき昭和👹いわて昭和史 🚃Bトレ盛鉄局 (@todoroki_showa) March 10, 2022
あの日、自分は東京の会社で会議中だった。
かなり大きい揺れが来たので、その会議は中止となり、それぞれの部署に戻ることとなった。
震源がどこか見てみると、宮城県沖だと言うではないか!
両親は無事だろうか。メールで一言だけ「応答せよ」とだけメールを打った。
返事がすぐに来た。
母「今、裏山に逃げています」
父「仕事のため釜石の唐丹にいます」
さしあたって生命の危険は無いようだった。
しかし、テレビでは釜石の魚市場が津波に触られている映像が映ってきた。
これは!
自分も含め兄弟は皆、岩手を離れ首都圏や東海地方にいる。
ほどなくして三陸地方との連絡が途絶えてしまった。
大騒ぎになっていたが、発災直後にメールの返事がすぐに来たことを伝えたら、さしあたって安心していた。
次に連絡が取れたのは、かれこれ2日後の日曜日のことである。
秋葉原の喫茶店はいつもと違って全くガラガラ。
そこでぼんやりコーヒーを飲んでいると電話。
「息子さんでいらっしゃいますか。私はお父さんの同僚のものです。私は今盛岡から電話してますが、遠野で別れお父さんは車で大槌に戻りました」
はっきり言って、東京でできることなど何もない。
テレビでは〽️ポポポポ〜ン と繰り返し流れてきた。
日本人なら「リンゴの唄」で終戦直後を思い浮かべるように、「あいさつの魔法」で震災を思い出すのだ。
4月に入り、避難所となっていた大槌高校も授業が再開されることとなった。
それで、避難民はいくつかの候補のうち両親は花巻の大沢温泉に移されることになった。
一度行ったことがあるが、その時のどこかの被災者の会話が非常に耳に残っている。
「昨日父さんの死体が見つかったの」
「よかったね」
普通なら「よかったね」と言える会話ではない。
しかし、大津波という状況で、家族が行方不明になって死体すら見つからないという話ばかりだったのだ。
三陸の子供たちは、家や学校で、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の三陸大津波、昭和35年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震の話をことごとに言い伝えられてきた。
三陸で生きるという事は、津波と共に生きると言うことなのだろうか。
あの津波で見る影もなく破壊し尽くされた山田線も、今や三陸鉄道リアス線として復活している。