東北新幹線大宮以南問題で合意形成(S51.4.30)
東北新幹線の工事が大幅に遅れたのは、石油危機による建設費圧縮だけが理由ではなかった。住民の反対運動、国会の混乱による国鉄財政の悪化、用地買収の停滞――複数の要因が重なり、1970年代半ばの建設現場は深刻な停滞期を迎えていた。
記事が書かれた当時(昭和51年前後)、東北新幹線はすでに国鉄の運輸大臣認可を受けて着工していたが、石油危機後の総需要抑制策で予算は縮小され、工事は年々スローダウンした。特に深刻だったのは埼玉県内、大宮付近だ。工事進行率はわずか0.4%、用地買収率も35%しか進んでおらず、事実上手つかずの状態だった。東京側でも状況は似ており、北区などで生活環境悪化への懸念から地下化を求める声が強く、高架案には強い反発があった。
そんななか、昭和51年4月末に事態がわずかに動いた。大宮新幹線対策協議会と国鉄が、公害対策で合意形成にこぎつけたのである。騒音65ホン以下、振動0.3以下という環境基準、大宮駅への全列車停車、電波障害対策、道路分断対策――こうした条件が、構造物を従来より太く厚くしたり、設計段階から地元の意見を反映したりする形で取り入れられ、ようやく“着工できる環境”が整ってきた。
さらに東京都側でも、美濃部都知事が「地下化が理想だが無理なら在来線並みの速度での運行を条件に乗り入れを認める」と姿勢を軟化。都内の急カーブの多い区間では新幹線を時速110km程度に抑える計画が示され、これなら騒音・振動の懸念も小さいとされた。こうした一連の動きは「大宮以南の工事に光が差した」と受け止められ、岩手を含む沿線自治体は、都内在住の県人会にも協力を求めながら建設促進の機運を高めようとしていた。
しかし、前進の兆しに水を差す事態が起こる。国鉄が財源として期待していた運賃値上げ法案が、ロッキード事件による国会空転で審議未了となり、値上げ実施が延期されてしまったのだ。国鉄は一ヵ月で530億円もの減収となり、建設費の大幅な削減を迫られた。岩手県内を担当する盛岡工事局でも、当初予定325億円のうち14億円を削ることになり、新規契約工事は全面ストップ。現在進む工事も中断すれば約3000人の失業問題が生じるため、細々と維持するほかなかった。
その一方で、岩手県内の工事進行率は41.8%と、全線でもトップクラス。高架橋の完成率も高く、順調に見える部分もあった。しかし国の財政事情と需要抑制策、そして大宮以南の遅れが重なり、当初予定の「昭和53年春開業」は絶望的に。昭和55年度中の開業でさえ「困難」と見られるようになった。
東北新幹線は、完成してしまえば「開業までの苦難」は忘れられがちだが、実際には石油危機、住民運動、ロッキード事件による国会停滞など、日本社会の動揺をまともに受けた公共事業だった。この記事には、当時の不安と、それでもわずかに見えてきた光明とが交錯する、1970年代半ばの空気が濃厚に刻まれている。