【参考】東京都知事選挙で美濃部vs石原の舌戦(S50.3.14中日ニュース)

昭和50年(1975年)の東京都知事選挙は、第8回統一地方選挙の目玉として4月13日に執行され、戦後都政史においても屈指の激戦として知られています。

この選挙の最大の焦点は、2期8年にわたり「革新都政」を敷いてきた現職の美濃部亮吉氏と、自民党が「首都奪還」を期して擁立した作家出身の衆議院議員、石原慎太郎氏による保守対革新の全面対決でした。

選挙戦に至るまでの過程は非常に波乱に満ちていました。美濃部氏は当初、支持基盤である日本社会党と日本共産党が同和行政などをめぐって激しく対立していたことを理由に、2期での勇退を表明していました。しかし、美濃部氏の三選を望む市民グループや支持政党からの猛烈な出馬要請を受け、選挙告示の約1ヶ月前になって一転して立候補を表明しました。この際、対立候補である石原氏を念頭に「ファシストに都政は渡せない」と発言したことは、選挙戦の緊張感を一気に高めることとなりました。

一方の石原慎太郎氏は、当時自民党内の若手右派グループ「青嵐会」のリーダー格として人気を集めており、浅利慶太氏や黛敏郎氏といった華やかな文化人・芸能人の支援を受けながら、美濃部都政による財政悪化を厳しく批判しました。また、民社党は元立教大学総長の松下正寿氏を擁立し、選挙戦は三者を軸に展開されました。

選挙活動では、石原氏側が積極的なテレビ討論を求めたのに対し、美濃部氏側がこれに応じないなど、戦術面での駆け引きも注目されました。また、美濃部氏のトレードマークであった「ミノベ・スマイル」と、石原氏の若々しくも攻撃的な姿勢が対照的に描かれ、都民の関心は極めて高く、投票率は67.29%に達しました。

投開票の結果、美濃部氏が約268万票を獲得し、約233万票の石原氏を約35万票の僅差で振り切って三選を果たしました。石原氏は敗れたものの、現職の強固な地盤を脅かすほどの票を集めたことで、その後の政治キャリアに大きな影響を与えました。この選挙は、高度経済成長が終わり、都市問題が複雑化する中で、革新自治体がその全盛期において保守勢力と激突した象徴的な戦いとして、今なお語り継がれています。

 


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