k大船渡・陸前高田・気仙郡 27 8月 1955 大船渡港近くの飲み屋が「カンバンだよ」と断ったらカツオ漁師に袋だたき(昭和30年8月27日) 昭和30年8月28日の河北新報岩手版より。 8月26日から27日に日付の変わった頃のこと。 三重県三木浦港からはるばる大船渡港まで入ってきたカツオ漁船の漁師が、港に近い飲み屋に入ろうとした。 店の親父は「悪いね。もうカンバンなんだよ」 「何だと!?」「何だとでねえこのー?」 口論になってしまい、しま… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 25 8月 1955 マグロやメカで埋まる豊漁の釜石港(昭和30年8月25日) 昭和30年8月25日の河北新報岩手版より。 釜石港の沖合のスルメ、鯖、マグロ、メカ漁は最盛期に入っており、水揚げ高は700~800万円にも達していたという。 8月22日は回来船や地元船のスルメやサバ船で43400貫あまり、金額にして900万円であったという。 ところで、ここで言う「メカ… 続きを読む
c久慈・九戸郡 13 6月 1955 八戸の副港を種市・八木港に(S30.6.13デーリー東北) 昭和30年6月13日のデーリー東北が伝える八木港の整備完了というニュースは、単なる一漁港の近代化報告に留まらない、北奥羽地域が一体となって歩んできた歴史の証左と言えます。 Screenshot 当時の八戸港は、全国から押し寄せるサバ漁の「回来漁船」で溢れかえっており、その膨大な船団をすべて受け入れる… 続きを読む
c久慈・九戸郡 4 6月 1955 シケが幸いしワカメで賑わう九戸沿岸(昭和30年6月4日) 昭和30年6月4日のデーリー東北より。 岩手県九戸郡沿岸では、ワカメ採取の最盛期を迎えていたと言う。 5月28日が続いたシケの影響で、ワカメが岸に打ち上げられているため種市の小子内浜ではナギを持って部落民が早出で3500貫ほどを拾いあげたと言う。 55〜6歳の老漁夫は、水から上がって焚き火に当たりな… 続きを読む
l全県 18 9月 1954 台風14号にサンマ漁船は戦々恐々(昭和29年9月18日) 昭和29年9月18日の岩手日報より。 太平洋の沖合にある台風14号が東日本にも接近しそうだと言うことで、サンマ漁船は戦々恐々としていた。 ちなみに、この次の台風15号は「洞爺丸台風」となる。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 16 4月 1954 ウニは魚市場を通さず直接取引で 昭和29年4月16日の読売新聞岩手版より。 ウニの採取は釜石湾の初夏の風物詩であったという。 4月1日が口開けで、11日から水揚げされたが浜相場はカラ付きで70~80円であったという。 この年から、ウニの採取者が零細漁民であるということから釜石魚市場を通さず直接販売が認められ、漁民は大喜びだったとい… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 10 4月 1954 宮古魚市場で3貫500匁の大マス 宮古魚市場で、体重3貫500匁という大マスが水揚げされ、5,000円で売れたという。 ちなみに以下のサイトによれば、3貫500匁とは13.125kgのことらしい。 昭和29年4月12日読売新聞岩手版より。… 続きを読む
備考※1 1 3月 1954 【参考】第五福龍丸がビキニ環礁で「死の灰」被爆 静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福龍丸」がビキニ環礁で被爆。 岩手とは直接関係のないニュースではあるが時代相を示す参考として。 https://youtu.be/UxKkhzZmw9g … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 12月 1953 釜石では魚の加工施設が不足(S28.12.1岩手日報) 釜石は製鉄の街であるとともに水産都市であるが、魚の加工施設が少ないことが問題になっていたようである。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 18 5月 1953 下閉伊郡の漁場ではブリ・マグロの最盛期 昭和28年5月13日の読売新聞岩手版より。 下閉伊郡沿岸の漁場ではブリ・マグロの最盛期となっていた。 重茂村漁協の根滝漁場では30~40貫内外の大マグロが2~3本ずつ漁獲したほか、1貫500匁という大きなブリも水揚げされたという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 23 9月 1952 釜石からサンマを積んで来たトラックが徳田村で軒先に突っ込む(S27.9.23岩手日報) 釜石から盛岡へサンマを積んできて、釜石へ帰る予定だったトラックが紫波郡徳田村高田(現在の矢巾町)でハンドル操作を誤って民家の軒先に突っ込み小学生たちが重軽傷というニュース。 片手運転でタバコに火をつけたのだというが、パワステのない重ステの時代にこれは無謀。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 21 9月 1952 釜石港も宮古港もサンマ漁船でいっぱい(S27.9.21岩手日報) サンマ漁のシーズンとなり、岩手からも船団が漁場を目指す。 釜石港も宮古港も賑わっている。… 続きを読む
l全県 16 9月 1952 キャベツ・さんまの輸送シーズンに貨物列車増発(昭和27年9月16日) キャベツなどの秋野菜、サンマなどの秋魚、そして冬に向かって木炭などの輸送の為に、盛鉄局では昭和27年10月1日~12月末の間に、貨物列車を増発することを9月16日に決定した。 内訳は以下の通り。 東北本線 3往復 八戸線 1往復 大船渡線 1往復 10月~12月までの間、現在の出荷量より以下の増加が… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 16 9月 1952 宮古港の朝(昭和27年9月16日) 昭和27年9月16日の岩手日報より。 「朝の生態」と言うシリーズものの写真記事があったようである。 今回は宮古港で、朝も明けないうちから、あみ等の準備を始めててむ出量に次々と出かけていくことが描かれている。 そして、寮から戻ってこようとする頃には、今度はモッコを担いだ行商の女性たちが港にぞろぞろと来… 続きを読む
l全県 11 9月 1952 収穫の秋にあの手この手の貯蓄合戦(昭和27年9月11日) 昭和27年9月11日の岩手日報より。 秋は農家の収穫や秋漁の水揚げで現金が多く飛び回り、各金融機関では、貯蓄の誘致に懸命であった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 20 7月 1951 海の記念日は盛岡市内の魚屋で「魚まつり」!(昭和26年7月20日) 昭和26年7月20日の「夕刊いわて」より。 7月20日は昔から「海の記念日」だったようで、盛岡市内の魚屋ではキャンペーン。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 3 12月 1950 気仙郡気仙町の長部港は土砂堆積ではしけも入れず(昭和25年12月3日) 昭和25年12月3日の岩手新報より。 気仙郡気仙町の長部港は、気仙川の土砂の堆積で、はしけも入れない状態になっていたのだと言う。 また、桟橋も昭和8年に建造された木製のものしかなかったのだと言う。 それで、漁船も仕方なく気仙港や細浦港に入るしかなかったのだと言う。 &nb… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 8 3月 1949 大槌港を修築してゆくゆくは「大槌市」に(S24.3.8岩手新報) 大槌港の修築計画があったようで、ゆくゆくは一大漁業基地として「大槌市」にしたいという構想があったようだ。 ちなみにこの時点で岩手県内で市制していたのは盛岡・釜石・宮古・一関の4市。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 14 9月 1948 大船渡線を仙台管理部から盛岡管理部に移管なんて反対だ! 昭和23年9月14日の岩手新報より。 盛岡鉄道管理局が発足する昭和25年より以前は、東北の鉄道は仙台鉄道局の管轄であった。 その中でも「仙台管理部」「盛岡管理部」とあったのだが、大船渡線はこの時点では仙台管理部の管轄であった。 これを、盛岡管理部に移管しようという話になったのだが、沿線の市町村会がこ… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 7月 1946 樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日) 昭和21年7月1日の岩手日報より。 終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。 終戦時の混乱 国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。 その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 2 7月 1945 昆布増産の最前線は学童たち(昭和20年7月2日) 昭和20年7月2日の岩手日報より。 当時、大槌湾は「養殖昆布の先進地」であると認識されていたようである。 その大槌湾では子供たちが小舟が沈みかけるほど大量に昆布を収穫していたという。 大槌漁協割り当ては5,957貫であったが、6月30日の時点でそれを達成し、これまで使わなかった穴布(あなめ)まで採取… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2 7月 1942 盛岡魚市場に鮪ドッサリ入荷(S17.7.2新岩手日報) 盛岡魚市場に、釜石や八戸方面からマグロがドッサリ入荷したという。 当時であればすでに山田線が開通しており、輸送も容易であっただろう。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 8 1月 1942 戦時下でも津軽石川の川開きは大盛況(昭和17年1月8日) 昭和17年1月7日の岩手日報より。 南部鼻曲がり鮭の名産地・津軽石川の川開きは全国的に有名となっており、東京方面からも見物客が来ていたという。 昭和17年の川開きは1月8日。 魚の魚体は小さいが2万~2万5千本ぐらいは漁獲できるのではないかと予想していた。 また、魚自体が品不足で見物方々食糧獲得で颯… 続きを読む
l全県 14 9月 1941 石油が無いので漁業にもランク付け(S16.9.14新岩手日報) 【歴史秘話】昭和16年9月14日「新岩手日報」を読み解く:戦時下の三陸漁業と食糧統制 真珠湾攻撃のわずか3ヶ月前、昭和16年(1941年)9月14日の「新岩手日報」。そこには、戦時体制へと急速に傾斜していく岩手の緊迫した空気と、食卓を襲う厳しい現実が刻まれていました。 Screenshot 特に注目… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 19 1月 1940 釜石港ではイワシが豊漁(昭和15年1月19日) 昭和15年1月19日の岩手日報より。 釜石港では近年にないイワシの豊漁であり、須賀埋立地派イワシの山でトラックが轢きつぶすような状況であったという。 ちなみに記事中では一貫してイワシは「鰮」と表記している。 魚油は35,000缶と前年の9,500缶に比べて4倍近くなり、肥料に使う〆粕も前年の5割増し… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 7月 1939 けふ閉伊川の鮎漁解禁!(S14.7.1新岩手日報) 閉伊川の鮎漁は、東京方面でも知られていたと言う。 その鮎漁が解禁されると言うことで、小さくではあるが報じられていた。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 12 1月 1936 津軽石川の川開きでサケ大漁(S11.1.12読売新聞夕刊) 昭和11年1月の津軽石川を写したこの紙面は、激動の昭和史において極めて平穏で、かつ日本の豊かな自然の底力が凝縮された一瞬を切り取っています。 今からちょうど90年前、岩手県宮古市の津軽石川では、川面が見えなくなるほどの鮭が遡上していました。記事にある五万五千尾という数字や、山のように積み上げられた「… 続きを読む