都市開発・総合開発

種市町に初の下水道(昭和33年1月12日) c久慈・九戸郡

種市町に初の下水道(昭和33年1月12日)

昭和33年1月12日のデーリー東北より。 下水道の無い種市町の駅前通りは、街中に汚水が流れ泥んこ状態であったという。 それで、昭和32年から2ヶ年計画で下水道工事を進めていた。 消火用水路を兼ねるもので、国庫補助5割で昭和32年度は駅前の200メートルが完成するという。   というか、下水…
久慈・玉の脇川に砂防ダム(昭和33年1月11日) c久慈・九戸郡

久慈・玉の脇川に砂防ダム(昭和33年1月11日)

昭和33年1月11日のデーリー東北より。 この時期、玉の脇漁港はサバの漁場として注目を浴びていたようである。 しかし、玉の脇川の土砂が流出し、岸壁付近が年々浅くなって行っていることから、玉の脇川に砂防ダムを建設していた。 そして二年掛かりで建設し、第一砂防ダムが完成したというのである。  …
久慈港も予算獲得合戦に参入(昭和31年1月19日) c久慈・九戸郡

久慈港も予算獲得合戦に参入(昭和31年1月19日)

昭和31年1月21日のデイリー東北より。 太平洋の荒波に面する久慈港は、漁船の難破事故が多かった。 そこで、堀込式の港にすることで、この状況を解消しようと言う計画があった。しかし、予算がないことにはどうにもならない。 同じような港湾整備の要求は、全国から43の港から上がっていた。 しかし、そのような…
久慈市の目抜き通りが面目一新(昭和31年1月16日) c久慈・九戸郡

久慈市の目抜き通りが面目一新(昭和31年1月16日)

昭和31年1月16日のデーリー東北より。 1月10日、久慈市計画委員会が行われ、保留していた市街地幹線道路の区画整理の実施大綱を決定した。 久慈駅前からまっすぐ現在の新町通りまで幅20メートルで広くだけなのでこの地帯の立ち退きが必要 新町通りも幅20メートルで片側の家屋は若干立ち退きが必要 東部新町…
久慈地方「ヒエではなくお米を常食できるように開田工事をしましょう!」(昭和30年12月25日) c久慈・九戸郡

久慈地方「ヒエではなくお米を常食できるように開田工事をしましょう!」(昭和30年12月25日)

昭和30年12月25日の岩手日報より。 九戸地方では、ヒエではなくお米を常食できるよう開田工事を進めているという。 長内土地改良区では、来年の田植え時期を目標に用水路の掘削工事を進めているという。 しかし、岩盤が固いところもあり爆破が主な作業となっているという。 これによって見込まれる米の増産量は6…
教育会館の隣に5階建ての文化ビルを建てます!(昭和30年11月7日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

教育会館の隣に5階建ての文化ビルを建てます!(昭和30年11月7日)

昭和30年11月7日の岩手日報より。 盛岡市では、国鉄盛岡工場二枚橋分工場の払い下げ鉄骨で、上田に東北一の体育館を建築しようと計画していた。(→昭和32年完成の盛岡体育館) このほか、盛岡市内の一等地である教育会館の隣の大通に文化センターを建設しようと計画していた。 構想によれば、四囲を緑地帯に囲ま…
花巻空襲10周年で全市民が黙祷(昭和30年8月10日) f花巻・稗貫郡

花巻空襲10周年で全市民が黙祷(昭和30年8月10日)

昭和30年8月10日の河北新報岩手版より。 この10年前である昭和20年8月10日、花巻町は空襲被害に遭い、死者45名、焼失家屋673戸で盛岡・釜石に次ぐ被害となった。 この日は正午を期し、全市民が黙祷するという。   写真は花巻のメインストリートである上町通り。 勿論まだ花巻デパートもマ…
盛岡駅前に新交番 a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡駅前に新交番

昭和29年4月17日の読売新聞岩手版より。 盛岡市の都市計画の一つとして、盛岡駅前の広場が拡張し、盛岡駅前に新交番が完成したとのこと。 総工費は49万5千円。 建坪8.16坪で木造2階建て。 防火モルタル張りでクリーム色のモダンな建物。  …
胆沢川発電所で電力に余裕ができました!各家庭でも電灯をつけましょう!(昭和28年10月2日) h水沢・江刺・胆沢郡

胆沢川発電所で電力に余裕ができました!各家庭でも電灯をつけましょう!(昭和28年10月2日)

昭和28年10月2日の胆江日日新聞より。 それまでは「停電」「節電」は日常のことだった。 発電所や変電所の容量が少なかったからだ。 しかし、このほど胆沢川水力発電所が完成したことにより、電力会社(記事には「東北電力」とは書いていない)では8月~9月の間、胆沢郡・江刺郡・和賀郡で4万戸訪問し、電気を増…
大通は「新興繁華街」だった(昭和26年3月31日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

大通は「新興繁華街」だった(昭和26年3月31日)

昭和26年3月31日の「夕刊いわて」より。 「盛岡繁盛記」というシリーズ物の記事の23回目は大通。 当時は、大通は「新興の繁華街」であり、老舗は何といっても川徳や松屋の二大デパートのある肴町であった。 大通の看板は、中劇・東宝第一劇場・中央ホールの映画館が集まっていることであり、この大通と中の橋通り…
盛岡は5年後こうなる(昭和25年1月14日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡は5年後こうなる(昭和25年1月14日)

昭和25年1月14日の岩手新報より。 岩手県観光協会では「盛岡の5年後の将来像」を描いている。 そして、これを国分憲吉知事に提出したのだという。 女子師範の跡地に5階建ての県庁を建設。 現在の県庁には盛岡市役所を移す。 市役所と旧警察練習所は取り壊して緑地帯に。 公会堂はホールを3階に。 その周辺を…
蜀黍(コーリャン)からで糖蜜を作れば岩手でも砂糖は自給できる!(昭和19年8月1日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

蜀黍(コーリャン)からで糖蜜を作れば岩手でも砂糖は自給できる!(昭和19年8月1日)

昭和19年8月1日の岩手日報より。 かつて、東北には「東北開発株式会社」という国策企業があった。 これは、昭和8年の三陸大津波や昭和9年の大冷害など、東北地方を襲った災害や飢饉に対し、国が東北地方の開発の重要性に鑑み昭和11年に「東北興業株式会社」として創設したものである。 だから、国先企業とはいえ…