鉄道・軌道

国鉄加賀山総裁が盛鉄局長室で会見「山田線復旧はどうなる?」(昭和25年10月9日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

国鉄加賀山総裁が盛鉄局長室で会見「山田線復旧はどうなる?」(昭和25年10月9日)

国鉄の加賀山之雄総裁は昭和25年10月9日10:58、盛岡駅到着の列車で釜石線開通行事のために盛岡に来る。 昭和25年10月10日岩手日報より 9日11時からは、盛岡鉄道管理局長室で記者会見に応じた。 山田線復旧計画に変わりはない。治山治水工事の実態を理解してから。 26年度予算には計上するには至っ…
国鉄が機構改革するなら盛岡にも鉄道局を!(昭和24年9月23日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

国鉄が機構改革するなら盛岡にも鉄道局を!(昭和24年9月23日)

昭和24年9月23日の岩手新報より。 公共企業体となった日本国有鉄道は、機構改革に乗り出すという。 仙台鉄道局盛岡管理部は廃止が伝えられている。 しかし岩手県は広いのだ。 むしろ鉄道局を設置してほしいと、盛岡市長や市議会議長が連名で鉄道局設置の陳情を国鉄に送った。  …
小さな駅は廃止しますよ!(昭和24年9月3日) d宮古・下閉伊郡

小さな駅は廃止しますよ!(昭和24年9月3日)

昭和24年9月23日の岩手新報より。 この年の6月1日に発足した日本国有鉄道は、それまでの「鉄道省」というお役所ではなく独立採算制の公共企業体となり、採算を考えなければならなくなった。 それで、人員だけではなく採算の取れない小さな駅を廃止することになった。 その基準は乗降客50人、発着小荷物4トン、…
国鉄の首切り計画でサンドイッチマン現る(昭和24年7月9日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

国鉄の首切り計画でサンドイッチマン現る(昭和24年7月9日)

昭和24年7月9日の岩手新報より。 国鉄は人員削減計画を発表し、それは盛岡管理部でも例外ではなかった。 東京では総裁が殺されたか自殺したか、謎の死を遂げている。 そんな中、盛岡工事事務所の組合分会員は、盛岡市内にサンドイッチマンを繰り出し、前年昭和23年にアイオン台風で崩壊した山田線の路盤の写真を大…
昭和24年9月15日のダイヤ改正では旅客サービスが良くなりますよ!(昭和24年9月1日) l全県

昭和24年9月15日のダイヤ改正では旅客サービスが良くなりますよ!(昭和24年9月1日)

昭和24年9月1日の岩手新報より。 国鉄では9月15日からダイヤ改正を行うという。 そのダイヤ改正の眼目は、日本国有鉄道が発足し、戦中の貨物列車中心のダイヤから、旅客サービスを中心としたものに変わるということ。 Wikipediaにも、独立して以下のような項目がある。 盛鉄管内でも、通勤者に優しくな…
釜石線工事の土倉トンネルが貫通(昭和24年7月26日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石線工事の土倉トンネルが貫通(昭和24年7月26日)

釜石線は西線と東線を結ぶ平倉~陸中大橋の工事が進められていた。 その最大の難所である土倉トンネル(平倉~上有住)は、昭和24年7月26日9時55分に国鉄盛岡工事事務所長の発破で貫通することとなった。   この瞬間を録音するために、NHKの録音班も、素掘りの構内に配線を行った。 即席の祭壇に…
東北本線・盛岡~厨川間で通信線切断事件(昭和24年7月17日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

東北本線・盛岡~厨川間で通信線切断事件(昭和24年7月17日)

行政整理による盛岡管理部管内2052名の首切りが発表され、東京の国鉄本社でも下山総裁が謎の死を遂げた。 そのような中、7月17日に日が変わった深夜2時45分ごろ。 盛岡駅にはそろそろ上野行きの上り216レが到着する頃だ。 隣の厨川駅に216レが出たかどうか確認しよう。 この写真は天昌寺のあたりらしい…
国鉄労組盛岡支部「断固職場を死守せよ!」(昭和24年7月2日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

国鉄労組盛岡支部「断固職場を死守せよ!」(昭和24年7月2日)

吉田首相の行政整理の方針に基づき、盛岡管内でも2052人の首切りが発表されることになった。 それで、国鉄労組盛岡支部の本部には「断固職場を死守せよ」と、2日の朝から組合旗が掲げられることになった。 闘争本部では、整理発表の当日の20時30分に本部指令を出し、傘下35分会に闘争指令を発した。 これに対…
国鉄の行政整理基準が決まる(昭和24年7月1日) m県外・参考

国鉄の行政整理基準が決まる(昭和24年7月1日)

昭和24年7月1日の岩手新報より。 政府は、国鉄の人員整理を決めていたが、その基準を下山国鉄総裁と、組合側の代表との会見で話した。 国鉄の業務に対しどの程度協力したかを最大の基準として、各所属長の責任で認定させる 優劣をつけがたいものは、勤続年数によって算出された一定の順位によって優劣を分ける。 &…
国鉄盛岡管理部管内では2052名の人員整理予定(昭和24年7月1日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

国鉄盛岡管理部管内では2052名の人員整理予定(昭和24年7月1日)

昭和24年7月1日、14時から吉田首相は官邸で会見を行った。 「行政整理はあくまで断行する」 つまり、国鉄の人員整理はあくまでも予定通り行うということを断言した。 当時、岩手県内の国鉄路線は仙台鉄道局盛岡管理部によって管轄されていた。 盛鉄管内の定員は業務員7,019名、養成中の者316名、無給職員…
北福岡駅が落成式(昭和24年3月3日) b二戸・二戸郡

北福岡駅が落成式(昭和24年3月3日)

  昭和24年3月3日の岩手新報より。 後に新幹線の二戸駅となる北福岡駅は、この時期焼失していたようで、その新駅舎が落成することとなったようである。 それで、仙台鉄道局の幹部や、RTOの仙台事務局からも来賓が来て落成式を行うことになったようだ。       &…
山田線の不通区間の保線用モーターカーへの便乗は禁止(昭和24年1月18日) d宮古・下閉伊郡

山田線の不通区間の保線用モーターカーへの便乗は禁止(昭和24年1月18日)

昭和24年1月18日の岩手日報より。 この時期、山田線は昭和23年9月16日のアイオン台風で平津戸~蟇目間が不通になっていた。 しかし、職員が復旧作業用に保線用モーターカーを走らせていた所へ、乗客がこっそりそれに便乗させてもらっていたのである。 しかし、そもそも正規の旅客輸送ではなく傷害事故が10件…
東北本線山目駅で貨車が脱線しダイヤ混乱(昭和24年1月17日) i一関・西磐井郡

東北本線山目駅で貨車が脱線しダイヤ混乱(昭和24年1月17日)

昭和24年1月18日の岩手日報より。 1月17日の昼下がり12時半ごろ、東北本線の山目駅で下り貨物列車の27両目が脱線して、それに続く4両も脱線してしまった。 それで東北本線は上下線とも支障をきたし、上り1202列車は2時間遅れ、盛岡19:19発上り急行列車は1時間遅れ、16:31発一関行き普通列車…
大船渡線を仙台管理部から盛岡管理部に移管なんて反対だ! i一関・西磐井郡

大船渡線を仙台管理部から盛岡管理部に移管なんて反対だ!

昭和23年9月14日の岩手新報より。 盛岡鉄道管理局が発足する昭和25年より以前は、東北の鉄道は仙台鉄道局の管轄であった。 その中でも「仙台管理部」「盛岡管理部」とあったのだが、大船渡線はこの時点では仙台管理部の管轄であった。 これを、盛岡管理部に移管しようという話になったのだが、沿線の市町村会がこ…
盛岡駅 発車時刻表(昭和22年6月) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡駅 発車時刻表(昭和22年6月)

日本交通公社「主要駅時刻表」(昭和22年6月)より。 昭和22年の鉄道ダイヤについて (Wikipediaより) 1月4日、石炭事情の極度の悪化から大規模な列車削減が行われる。列車の走行キロは日15万キロと終戦時の約26万キロの57%にまで落ち込み、急行列車、準急列車、二等車(現:グリーン車)が全廃…
終戦、そのとき岩手では(昭和20年8月15日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

終戦、そのとき岩手では(昭和20年8月15日)

8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。 その時岩手はどうであったか。 岩手日報からその様子を抜き出してみたい。 盛岡工機部(国鉄盛岡工場)の大詔拝聴 仙台鉄道局盛岡管理部の終戦の勅語拝聴は、15日正午から盛岡駅貨物取扱所で行われた。 岩手日報の書きぶりをそのまま抜き出すと、 この日管内…
盛岡駅「乗車券発行制限で定期券の購入が増えたのはいいんですけど…」(昭和20年8月10日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

盛岡駅「乗車券発行制限で定期券の購入が増えたのはいいんですけど…」(昭和20年8月10日)

昭和20年8月10日の新岩手日報より。 盛岡駅の統制官は言う。 「最近、乗車券の発行制限の強化で定期券の購入がやたら増えたのですが、その定期券購入所だって登録した役所とか病院に限ってますが、その申請書を出していないところが、特に盛岡に多いので支給申請してください。 これまでは申請が無くても特別に発行…
仙台鉄道局では7月11日~9月10日を「極限的輸送力増強期間」とする(昭和20年7月10日) l全県

仙台鉄道局では7月11日~9月10日を「極限的輸送力増強期間」とする(昭和20年7月10日)

昭和20年7月10日の岩手日報より。 仙台鉄道局では、戦時体制の維持の為に、7月11日~9月10日を「極限的輸送力増強期間」と定めることにした。 これは、軍需省(昭和18年に商工省から改組)の定める重要資源と、食糧以外の輸送を極力抑制し、それ以外の貨物の受付を場合によっては拒絶するというもの。 また…
戦時下でも津軽石川の川開きは大盛況(昭和17年1月8日) d宮古・下閉伊郡

戦時下でも津軽石川の川開きは大盛況(昭和17年1月8日)

昭和17年1月7日の岩手日報より。 南部鼻曲がり鮭の名産地・津軽石川の川開きは全国的に有名となっており、東京方面からも見物客が来ていたという。 昭和17年の川開きは1月8日。 魚の魚体は小さいが2万~2万5千本ぐらいは漁獲できるのではないかと予想していた。 また、魚自体が品不足で見物方々食糧獲得で颯…