支那軍が満鉄線を爆破(S6.9.20岩手日報)
昭和6年9月20日の岩手日報は、満州事変勃発直後の緊迫した情勢を克明に伝えています。主文は、暴戻なる支那軍が満鉄線を破壊襲撃し、これを受けて日支両軍が遂に砲火を交え、我軍が奉天城を占領したことを大々的に報じています。

記事によれば、18日午後10時30分頃、奉天北北大営西方付近において支那軍が満鉄線路を破壊し、我が守備隊を襲撃したため、守備隊の一部と奉天独立守備隊第2大隊が直ちに出動したとされています。
戦況については、19日午前6時には奉天城が完全に我が軍の手に入り、支那軍の武装解除が行われて東大営攻撃に移ったことや、猛烈なる砲撃の末に北大営を占領した経緯が記されています。また、関東軍司令部が奉天に出動したことや、旅順から奉天へ軍が進撃した様子、さらには朝鮮から混成旅団が奉天へ向けて越境出動した事実も大きく取り上げられています。
事件の背景として、日支交戦の原因が支那軍による計画的な行動であったと断定し、遼陽駐在の第2師団に出動命令が下ったことも報じられています。政府の動きとしては、緊急に臨時閣議が開かれ、南次郎陸相から経過報告が行われたことや、政府が慎重な態度で臨む決意を固めたこと、関東軍司令官に対して訓令を発したことなどが詳細に並んでいます。
国際的な反応や外交面では、幣原外相が重光公使に訓令を発したことや、駐米大使が米国政府に事件の概要を説明したことなどが記されています。

また、地元の状況を伝える記事として、仙台の第2師団に出動命令が下った際の街の騒ぎや、事態を把握しようとする市民によって満州の地図が飛ぶように売れ、どこの書店でも品切れ状態になったというエピソードが紹介されています。
紙面の下部には、長春でも交戦中であることや、寛城子を占領したこと、さらには飛行隊が新京州へ出動したことなど、戦火が拡大していく様子が次々と掲載されています。このほか、県議会の動向や盛岡署の動員準備、さらには満州在住の日本人の安否を気遣う家族の様子など、軍事、政治、社会のあらゆる側面からこの未曾有の事態を網羅的に伝えています。
当時の岩手日報の紙面からは、軍事的な衝突が即座に経済へと波及し、盛岡の市場もまた激しい混乱に陥った様子が手にとるように分かります。
日支交戦の影響で株式市場は大混乱を極め、郵船や石油株が暴騰する一方で、その他の諸株は暴落するという極端な展開を見せました。対支時局の急激な悪化により、市場はパニックに近い状態となり、新東は期二で70銭安、長期紡績株は戦端開始と共に闇株として大きな動揺を見せたと記されています。富士製紙や九

一三菱株なども過般来の下落から立ち直れず、市場全体が総崩れの様相を呈していました。
株式だけでなく、商品市場もまた深刻な影響を受けています。米況については、天候の回復という好材料があったものの、日支衝突事件の発生により市場は弱含みとなり、各産地の銘柄で30銭から40銭以上の下落が見られました。清算市場では綿糸や砂糖なども暴落し、実物取引においても外電の不調と相まって一般的に軟化し、取引は行き詰まりを見せていたようです。
盛岡の経済動向を左右するこれらの市場指標が軒並み乱高下したことで、当時の証券関係者や投資家たちは、まさに戦々恐々とした数日間を過ごしたことが推察されます。この未曾有の事態は、単なる軍事ニュースの枠を超え、市民の生活や財布に直結する切実な問題として、岩手日報の紙面に刻まれています。
