石黒知事が県北の凶作地を視察(昭和7年1月10日)
昭和7年1月10日の岩手日報より。
当時の石黒英彦知事は、県北の凶作地を視察して歩くことにしたのである。
知事は、二戸警察署長の案内で、馬橇に乗って小鳥谷村の軽井沢部落に差し掛かった。
谷底にあるみすぼらしい一軒家に「誰かいるかね」と声をかけたが返事がない。
それでもに二戸署長の案内で奥に入ると、中は真っ黒で、お互いの顔すら見れない。
再び声をかけると、藁布団からぼそぼそと姿を現した、80になると言うおばさんであり、老衰と栄養不足で体の自由が効かない上に耳が遠いのだと言う。
そしてかすれた声で語り出すところでは「家族も15人おり、この15人の家族は板の間にボロボロのむしろを敷いた10畳の部屋に寝起きしながら炭俵を作っているのだが、1日かかって40銭足らずの現金が収入の全てである。これが直ちにその日の稗ヌカと株と馬鈴薯の常食となるのである。凶作になってから、この程度の最低限の食料を振ら欠乏することも珍しくはなくても3度の食事を2度、2度の食事を1度と言う非常手段を断行しなければ生きていけない」
石黒知事は暗澹として語る言葉もないと言う有様。
この廃屋同様の表札の下には、「昭和6年度春季清潔法施行済」の札が貼られていた。
そこへ、馬が勢いよく鳴き出してひょいと振り向くと馬がわきをヌーっと一行の前を通っていた。暗くて気づかなかったのである。
そうかと思うと、鶏が居間で糞を放った。ニワトリは土間にも劣る居間を鶏舎と心得ているようだった。
知事は、おばさんに頼んで夕飯の試食をしたのだが、その人に振られたぼそぼその稗を食べてみると、どうしても喉を通らない。
知事はポケットから金一封を出して「これで何か温かいものでも」と語った。
知事はこの後、この奥中山よりさらに惨状を極めている爾薩体村へと急ぐことになった。
このおばさんは貧農ではあるが、この下に更に極貧者があり、全然食べれないで、終始村にお世話になって生きていく階級があると言うことだった。