三陸汽船が月3回の東京〜八戸航路を計画中(S8.2.1岩手日報)

昭和初期の三陸において、海路は人々の暮らしと経済を繋ぐ最大の大動脈でした。昭和八年二月一日付の岩手日報には、当時の三陸沿岸を象徴する企業である三陸汽船株式会社が、八戸、三陸沿岸、そして東京を結ぶ新たな航路の開拓を計画していたことが詳細に報じられています。

この記事の主役である三陸汽船は、明治四十一年に釜石の横山久太郎ら地元資本によって設立された会社です。当時、三陸航路を独占していた東京の巨大資本に対抗し、地元の人々のための安価で安全な輸送手段を確保するという高い志を持って誕生しました。紙面から読み取れるのは、その三陸汽船が千五百トン級の貨客船を投入し、月に三回程度の定期運航によって、八戸から各港を経由して首都東京へと直結させようとする壮大なビジョンです。

当時の背景を紐解くと、この航路計画には深い意味があったことが分かります。昭和五年には八戸線が久慈まで全通するなど、陸路では鉄道網の整備が着々と進んでいました。陸の輸送力が強化される中で、三陸汽船は広域な海運ネットワークを構築することで、三陸の豊かな水産物をより速く、より大量に市場へ届ける道筋を盤石にしようとしていたのです。また、記事の傍らには経済更生計画の打ち合わせが行われたことも記されており、地域一丸となって不況を乗り越えようとする熱気が行間から伝わってきます。

しかし、この希望に満ちた報道からわずか一ヶ月後、三陸の地を昭和三陸地震が襲います。未曾有の災害を前に、三陸汽船は避難民の移送や物資の運搬において極めて重要な役割を果たすことになりました。その後、戦争という時代の荒波に飲まれ、会社は昭和十九年に戦時統合によってその名を消すことになりますが、その精神は現代の港湾荷役や造船の技術として今も三陸の地に息づいています。

一枚の古い新聞紙面は、津波という大きな試練を前にして、さらなる発展を夢見ていた当時の人々のたくましさと、三陸の海を拓こうとした先人たちの誇りを私たちに教えてくれます。


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