ブラジル移民大募集(S8.3.2岩手日報)
昭和8年、日本がブラジル移民を強力に推進した背景には、当時の社会が直面していた深刻な行き止まり感がありました。1920年代後半からの経済不況は、1929年の世界恐慌で決定的なものとなり、特に農村部は壊滅的な打撃を受けました。当時の日本は人口が急増していた一方で、国内の耕地面積には限界があり、あふれた労働力を収容する場が不足していました。政府はこの人口圧力を解消し、同時に海外での外貨獲得を狙う手段として、ブラジルへの移住を国策の柱として位置づけました。
この時代、ブラジル側でもコーヒー農園の労働力として欧州系移民が減少していたため、日本からの働き手を歓迎する土壌がありました。日本政府は移住を円滑に進めるため、渡航費の全額補助や現地での土地分譲といった、当時の生活水準からは考えられないほど手厚い条件を提示しました。これは単なる個人の引っ越しではなく、国家の存亡をかけた組織的な民族移動という側面を強く持っていました。
岩手県においても、この国策は切実な地域の課題と直結していました。東北地方を襲った昭和初期の冷害や凶作は農村を疲弊させ、食うや食わずの生活を強いられる人々が続出しました。こうした窮状を救う出口として、岩手県庁は社会課に海外渡航相談所を設置し、組織的な勧誘活動を展開しました。新聞広告に掲載された25町歩という広大な土地は、現在の東京ドーム約5個分に相当します。このとてつもない広さの地主になれるという約束や、家族単位での移住を条件とする文言は、土地を持たない小作農や、大家族を養いきれなくなった家長にとって、一発逆転の希望として映ったはずです。
県や町村の職員は、単に窓口で待つだけでなく、村々を回って説明会を開き、新天地での成功を説きました。岩手の人々は真面目で忍耐強い気質が評価されており、送り出す側も岩手の代表として彼らを鼓舞しました。しかし、その華々しい募集広告の裏には、先祖代々の土地を離れざるを得なかった人々の苦渋の決断と、未開のジャングルを切り拓くという過酷な現実が待ち構えていたことも忘れてはなりません。昭和8年のこの小さな新聞広告は、当時の岩手が抱えていた痛みと、海を越えた先に託した巨大な夢の記録そのものと言えます。