厳美村から銃後の便り(S17.7.5新岩手日報)

昭和17年7月5日の新岩手日報には、当時の西磐井郡厳美村(現在の一関市)の「銃後」の様子が記されている。記事の冒頭には「第一線に御奮戦の皇軍の皆様ご苦労様です」という文言が置かれ、戦地への敬意を示す決まり文句として当時の新聞にしばしば見られた表現である。

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記事の中心は、6月21日に行われた村議会選挙の報告である。推薦候補18名が全員当選し、一時は自由候補が出馬しそうになったが、翼賛青年団の働きかけによって辞退となり、挙村一致の選挙に落ち着いたとされている。翼賛体制の下では、地方でも名目的な選挙だけが残り、実質的には自由な立候補が難しい情勢になっていたことがうかがえる。

農業については、この年は雨が少なかったものの、村では豊作が見込まれ「予定のプラン通りにできそうだ」と記されている。「プラン」という語がそのまま使われている点は、敵性語追放が叫ばれていた時代としてはやや不思議だが、行政計画の用語としては特に問題視されず残っていたようである。

軍事援護事業としては、銃後奉公会に専任職員を置き、椎茸栽培やアンゴラ兎の飼育など、各種産業の奨励を進めていることが紹介されている。農村でも軍需物資の確保に向けた取り組みが必要とされ、地域全体が戦争のために働くべく組織化されていた。

この記事の背後には、昭和17年夏という戦況がある。表向きには前年末からの南方での勝利が続き、日本軍は広大な地域を占領していた。しかし6月にはミッドウェー海戦で主力空母を失い、海軍航空戦力が大きく損なわれた時期でもあった。この敗北は国民には知らされず、新聞には勝利の報道ばかりが並んでいたが、戦況の潮目はすでに変わりつつあった。

東南アジアや太平洋の各地では、なお日本軍が優勢に進んでいるとされたものの、補給は次第に行き詰まり、南方占領地の維持にも無理が生じていた。7月にはソロモン諸島のガダルカナル島で日本軍が飛行場建設を進めており、その後の大規模な戦闘の前夜にあたる。国内では物資不足が目立ち始め、農村にも増産への圧力が高まっていた。

厳美村の記事からは、こうした広い戦局とは別の、地方の日常が静かに進んでいる様子が読み取れる。選挙は型通りに行われ、農業はなんとか予定通りに進み、村ぐるみの産業奨励が進められている。しかしその背後には、すでに戦争が長期化し、今後の見通しがつきにくくなっていく時代の緊張がひそんでいる。昭和17年の地方紙の記事は、当時の生活の細部とともに、戦局の転換点の空気を今に伝えている。


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