後藤新平や斎藤実の銅像も「出征」(S19.4.1新岩手日報)

【歴史の断片】偉人たちの「出征」― 昭和19年、水沢に響いた撤収式の鐘


昭和19年(1944年)4月1日。現代の私たちにとってはエイプリルフールとして馴染み深い日付ですが、今から80年以上前のこの日、岩手県水沢(現・奥州市)の新聞には、町の誇りを揺るがすような記事が掲載されていました。

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当時の『新岩手日報』の紙面から、金属類回収令によって「戦列」に加わることとなった二人の偉人――後藤新平伯斎藤実子の銅像にまつわる記録を紐解きます。

「出征」という名の供出

紙面の大きな見出しには、こう記されています。

「後藤伯と斎藤子 両銅像も戦列へ」
「水澤で八日に盛大な撤収式」

太平洋戦争末期、深刻な金属不足に陥っていた日本。公共施設や家庭から金属を回収する「金属類回収令」はついに、郷土が誇る偉人の象徴にまで及びました。記事では銅像が撤去されることを、まるで兵士が戦地へ向かうかのように「出征」という言葉で表現しています。

  • 後藤新平伯像: 明治43年(1910年)建立。約34年にわたり町を見守ってきた象徴。
  • 斎藤実子像: 昭和13年(1938年)建立。建立からわずか6年での供出。

4月8日に行われた撤収式は、多くの市民が参列する中で執り行われました。町の誇りが武器や弾薬の材料になるため、溶かされていく……当時の人々がどのような思いでその光景を見つめていたのか、胸が締め付けられます。

紙面に残る「戦時下の日常」

この新聞記事で注目すべきは、銅像のニュースのすぐ隣に掲載されている「水澤町の配給」の情報です。

品目 配給量
マッチ 1人あたり2個
醤油 1人あたり2合2勺(約400ml)

偉人の像を差し出す一方で、町民の生活もまた極限まで切り詰められていたことが、このわずかなスペースから生々しく伝わってきます。国家の非常時という名の元に、すべてが「戦い」へと収束していく時代の狂気を感じざるを得ません。

結び:失われた像、再建された誇り

現在、奥州市の水沢公園には、戦後に再建された二人の銅像が再び堂々と立っています。しかし、昭和19年に一度「戦列」に消えていった歴史があったことを知る人は、年々少なくなっています。

一枚の古い新聞記事。そこには、教科書だけでは学べない、私たちの足元にある歴史の真実が刻まれていました。平和な空の下で銅像を見上げられる幸せを、改めて噛み締めたいと思います。

※この記事は昭和19年4月1日付『新岩手日報』の資料を元に作成しました。

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