盛岡電話局は機械も古く交換嬢も不足(S25.1.12岩手新報)

昭和25年1月12日の岩手新報が伝える盛岡電話局の実態は、戦後の復興期がいかに壮絶なマンパワーによって支えられていたかを物語っています。当時の新聞が傷だらけの電話局という刺激的な言葉を見出しに選んだ背景には、設備と人員の両面で限界を超えていた過酷な現場環境がありました。

当時の盛岡における通信の要であった交換手の総数は130名にのぼりましたが、その内情は深刻でした。長期の病気欠勤者が10名、さらに医師の診断によって夜勤を止められている者が40名も含まれており、実に全体の約4割が健康上の不安を抱えながら業務にあたっていたことになります。午前9時から11時半までのピーク時には絶え間なく通話が殺到し、不眠不休に近い状態でプラグを差し替える交換手たちの労働環境は、まさに現代の基準では考えられないほど過酷なものでした。

現場をさらに追い詰めていたのが、案内台の状況です。市内外の電話番号を案内する500番の業務は、驚くべきことにたった1人の案内係に委ねられていました。かつては数年前までの市内番号をすべて暗記しているという東野ヒロ子さんのような超人的なベテランがその重責を担っていましたが、彼女もまた過度の心労がたたり、1年ほど前から病気で戦線を離脱していました。案内台の欠員はそのままサービスの停滞に直結し、代わりのきかない職人芸的な記憶力に頼らざるを得ない危うい運営が続いていました。

こうした人手不足に追い打ちをかけていたのが、設備の老朽化です。当時使われていた機械は東京の小石川局などから払い下げられた中古品であり、ジャックもリレーも古く、故障が頻発していました。技術面でも最新の自動交換機とは程遠いレベルにあり、当時の関係者や市民の間からは、いつになったら明るく使い勝手の良い電話になるのかという嘆きの声が漏れていたようです。4月には増員が予定されていたものの、それまでの期間をどうにか耐え抜こうとする現場の悲壮感が、紙面からは痛いほど伝わってきます。

こちらの内容で、ブログ記事としてより情緒的で読みやすい流れになりました。当時の地図や、他に気になる記事のトピックなどがあれば、続けて構成を考えるお手伝いをさせていただきます。


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