岩手県町村会館の竣工(S29.9.17岩手日報)
昭和29年9月17日付の岩手日報には、「岩手県町村会館 祝・新築落成」と大きく銘打たれた広告が掲載されている。紙面中央には、新しく完成した町村会館の堂々とした建物のイラストが描かれ、右側には祝賀式典の案内、左側には岩手県市長会の名簿が並ぶ、いかにも「節目」を意識した紙面構成だ。

この町村会館新築の背景には、戦後の行政再編と都市の変化があった。当時、盛岡市中央通一丁目には電電公社(現在のNTT)である盛岡電話局が置かれていたが、その移転が決まったことで、従来その周辺にあった町村会館も、別の場所に新たに建設せざるを得なくなったのである。戦後復興が一段落し、通信インフラや行政施設が次の段階へと動き始めた時代らしい事情と言える。
興味深いのは、この広告には「町村会館が盛岡市内のどこに建てられたのか」が明確に書かれていない点だ。今日の感覚であれば、所在地やアクセスが必ず記されそうなものだが、当時は「新築落成」そのものがニュースであり、関係者には場所が自明だったのかもしれない。あるいは、町村関係者向けの性格が強く、一般市民に場所を周知する必要がなかった可能性も考えられる。
紙面下部には、県内各町村からの祝賀広告がずらりと並んでいる。ただし、よく見ると、広告を出しているのは稗貫郡、上閉伊郡(しかも遠野周辺のみ)、東磐井郡に限られている。他の郡が見当たらないのは、財政的余裕の差なのか、町村会館との関係性の濃淡なのか、あるいは単に広告の取りまとめの事情によるものなのか。こうした「出ている所と出ていない所」の偏りも、当時の地域構造を考える手がかりになりそうだ。
現在、岩手県自治会館は盛岡市中心部からやや外れた山王町に位置している。静かな住宅地に近い場所に立つ現在の姿と比べると、昭和29年当時の町村会館は、より「動いている盛岡」の中で、行政と地方自治を支える拠点としての役割を担っていたように思える。
一枚の広告から浮かび上がるのは、戦後復興期から高度成長期へと向かう途中で、地方自治の器もまた更新されていったという事実だ。町村会館の新築落成は、単なる建物の完成ではなく、岩手の自治が次の段階に進んだことを象徴する出来事だったのだろう。