中国・武漢訪問記(S39.2.8岩手東海新聞)
1964年2月8日
2025年3月3日
中国の工業化と社会主義建設の現場では、鉄鋼コンビナートの建設が進められていたが、機械が未設置の工場や動力機械が不足している工場もあり、労働者の不満が高まる状況だった。それでも「自力更生」を掲げ、薄板工場や線材工場、パイプ工場の建設が進められていた。労働者は三交代制で働き、休暇を返上して増産に励み、生活費は低く抑えられていた。武漢では何もない丘陵地を整地し、工場だけでなく住宅や学校、病院などを短期間で建設し、大規模な社会主義都市が出現した。工場の10%はソ連製の設備だったが、1962年にソ連が技術供与を停止し、工場建設が困難になった。労働者が多く、一見するとコストが高く思えたが、技術者不足を補うための労働力として活用されていた。工場では労働組合による教育が盛んで、社会主義思想のもと、労働者は積極的に学習しながら労働に従事していた。