父ちゃんが出稼ぎから戻ってくる(S42.12.17デーリー東北)

昭和42年12月17日のデーリー東北という一枚の紙面から立ち上がってくるのは、現代の感覚とは大きく異なる、熱を帯びた東北の冬の光景です。紙面の中心で踊る「とうちゃんが戻った」という見出しは、当時の久慈や九戸地方において、出稼ぎからの帰郷がいかに地域全体を揺り動かす大きなイベントであったかを物語っています。

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1967年という高度経済成長の真っ只中にあったこの時代、冬場に仕事がなくなる東北の農村部では、父親たちが関東や北海道へ働きに出ることは日常の一部でした。数ヶ月の離別を経て、まとまった現金を手にした父ちゃんたちが列車から降り立つと、そこには子供たちの歓喜の声があり、久しぶりの再会を祝う家族の買い物が街を彩ります。興味深いのは、この記事が伝える失業保険のあり方です。現代ではセーフティネットとしての側面が強いこの制度ですが、当時の紙面を読むと、出稼ぎを終えた人々にとってそれは冬を越すための当然の権利であり、ある種のボーナスのような喜びを持って迎えられていたことが分かります。

記事によれば、当時の失業保険の日額は950円から1600円程度が相場でした。一ヶ月になれば33240円という額になり、これは当時の安サラリーマンの月給では到底及ばないほどの実入りであったと記されています。受給日には街が人で溢れかえり、このまとまった現金が商店へと流れ込んでいく。失業保険が地域経済を回す力強いエンジンとして機能していた、独特の幸福なサイクルがそこにはありました。実際に、久慈職安管内だけでも334944000円という巨額の失業保険金が支払われており、その額は久慈市の年度予算のほぼ半分に相当するというから驚きです。

しかし、なぜこれほどまでに一般的だった出稼ぎという文化は、現代の私たちの生活から姿を消してしまったのでしょうか。その最大の理由は、地方の産業構造が根本から作り替えられたことにあります。かつては冬になると現金収入が途絶えていた東北ですが、その後の大規模な工場誘致や公共事業の拡充、さらにはサービス業の発展によって、地元で年間を通して働ける雇用が定着しました。農業の現場でも、機械化による省力化が進んだことに加え、ビニールハウス栽培などの技術革新によって、雪の中でも家で稼ぐことが可能になったのです。また、かつての冬のボーナス的存在だった失業保険制度も、時代の変化とともに積極的に仕事を探している人への支援という本来の趣旨が厳格化され、以前のように季節のサイクルとして組み込むことは難しくなりました。

この記事に映し出されているのは、家族のために遠い地で汗を流した父ちゃんたちの背中と、その帰りを待ちわびる家族の期待が、失業保険という制度と相まって街全体を爆発的に活気づけていた、ある種の記録です。不便さや厳しさもありましたが、紙面から溢れ出すような年末の賑わいは、地元での安定した雇用と引き換えに私たちがいつの間にか失ってしまった、昭和という時代の力強い熱量なのかもしれません。ゴミ処理場の新設や中学生の活躍を伝える小さな記事も含め、この日の新聞は、古い慣習と近代化への足音が混ざり合った、東北の劇的な転換点を見事に切り取っています。


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