釜石市営ビル独居老人殺人事件(昭和43年1月30日)
閉店時刻でもないのに
釜石製鉄所は合理化され、愛知県の東海製鉄所に集団で転勤するなど、人口は8万人を切っていたが、相変わらず溶鉱炉の火は赤々と燃え、中心街はガラの悪い賑わいを見せていた時期の釜石市での事件である。
昭和43年1月30日の夜8時半頃。
釜石港に近い浜町の市営ビル1階でタバコや種苗を売っている路面店ではなぜか電気が消えており、カーテンが閉められている。
まだこんな時間に閉める人ではないのに。
ビルの管理人が不審に思って入ってみると、商店主である67歳の老人は頭を割られて死んでいるではないか!
67歳のマイペースな粋人
この老人は一関の出身であった。
一関中学(現:一関一高)から千葉園芸学校(現:千葉大学園芸学部)に進み、戦前から釜石で花屋をしていた。
俳句、短歌、随筆など多趣味で、昭和32年4月22日の岩手日報では、ジュウシマツを飼いならしている姿も岩手日報に取材された。
また、昭和30年には「浮気の虫」という本を自費出版していた程だという。
事件があったので警察で調べると、21歳から60歳まで、十数名の女性と関係を持っていることが明らかになった。
中には被害者を恨んでいる者もいるという。
そんな自他ともに認める「浮気の虫」だけに家庭生活がうまくいくはずもなかったようで、妻とは既に離婚して独居、子供たちとも折り合いはよくなかったようである。
また、他方面にまとまった金額を貸していて、それが焦げ付いていたという話もあった。
ともあれ、殺害された部屋の中はというと金庫も荒らされておらずタンスなどを物色した形跡もない。
つまり強盗の線は消えたということ。
「浮気の虫」でもあるだけに痴情か、はたまた金銭トラブルによる怨恨か。
手掛かりは、死体付近にあった広告紙から採取した血液指紋ぐらいだった。
難航する捜査
事件は2月の声を聞いても解決しない。
そもそも、事件当日はいつまで生存していたのか。
分かっているだけでも以下の通りだった。
・~15時頃まで 36歳の長男が来ていた。
・15時40分頃 近くの食堂店員が被害者宅に出前を届けに来る。
・16時10分頃 市営ビルの住人が煙草を買う。
・16時30分頃 店の前を通りかかった水産事務所職員が悲鳴を聞く。
・17時頃 煙草を買いに行った客が「店に誰もいなかった」とボヤいていた。
こうしてみると、犯行があったとすれば16時半過ぎということになる。
ちょうど夕食の支度時であり、人通りの少ない時間でもあった。
特に36歳の長男は、店の後継問題などで不仲であったというが、指紋が一致しなかった。
里帰り出産に立ち会った男
そのような中でも、警察でマークしていた人物がいる。
その男は釜石出身の23歳の土工であったが、その時は仙台に住んでいた。
前年9月に妻が金に困って被害者に金を借りた際、被害者から肉体関係を求められた。
これに対し、夫であるこの土工が怒鳴り込んだというのだ。
含むところは大いにある。
これを深堀りして調べてみると、妻の里帰り出産で1月27日に釜石に帰ってきていたのだ。
そして1月30日の11:10発急行「陸中」で妻や家族に見送られて釜石駅を出発している。
そうなるとアリバイはあることになりそうだ。
ところがこの男は2月の下旬に仙台市から福島県いわき市に転出した。
そして3月9日、いよいよ妻が出産するというので釜石に向けて出発するという情報が入ってきた。
一致した指紋
愛する妻ともうすぐ見ることのできるであろう一粒種の待つ釜石に向けて、常磐線、東北本線、釜石線と乗り継いできたであろう男は、その釜石駅で待ち構えていた警察官に任意で事情を聴かれることとなった。
「ちょっと指紋を取らせてもらおうか」指紋を取って県警本部の鑑識課に送付された。
盛岡の県警本部鑑識課から釜石署に結果が報告されたのは、3月10日の夜7時。
右手示指が血液指紋と一致していたというのだ。
翌3月11日、本人の出頭を求め重要参考人として取り調べたところ、示された証拠にあらがえず、犯行を自供することとなった。
当日のこと
事件当日は11時10分の上野行き急行「陸中」で釜石を出発したはずではなかったか。
しかし男は、本当はその日の午前中に被害者宅へ行くつもりだった。
しかし「いわきまで帰るなら家族みんなで送ってくから」と松倉の妻宅から全員で釜石駅までついてきた。
これでは浜町のあの男の家に行けない・・・
仕方がないので急行に乗ってしまい、最初の停車駅である陸中大橋で降りて、釜石行きの普通列車で折り返していたのである。
そして16時ごろ被害者宅へ行く。
最初は「身重な人の嫁に手を出すとは何事だ!」と文句を言いに行くだけのつもりだった。
それが逆に「金も返さないくせに」ということになり、カッとなった男はナイフで首を刺し、鉄製の急須で止めを刺し・・・ という犯行に至ったというのである。
判決
判決は、昭和43年12月25日の盛岡地方裁判所。
懲役8年の判決を受け、控訴せず確定した。