盛岡・肴町商店街と警察・市役所が車馬通行をめぐって対立(S26.8.6夕刊いわて)

夜店計画に“待った” —— アーケード前夜の肴町商店街と交通問題

昭和二十六年八月六日付の「夕刊いわて」には、当時の盛岡市肴町商店街が直面していた“夜店問題”が大きく取り上げられている。

Screenshot

現在の肴町といえばアーケード街として知られ、歩行者がゆったり買い物を楽しめる空間が整備されている。しかし昭和二十年代当時はまだアーケードなどなく、通りにはスズラン灯が整然と並ぶ、いかにも「昭和の商店街」といった風景が広がっていたという。

商店街 vs 行政 —— 車馬通行をめぐる対立

肴町商店街は戦後の客足回復を狙い、夜店(夜の露店)を出して賑わいを取り戻したいと考えていた。
しかしここで立ちはだかったのが、市土木課と盛岡市警察署だった。
• 商店街側:「夜店の開催には通りを歩行者天国にしたい。車馬の通行を止めてほしい」
• 関係当局:「車馬の通行は生活・業務上必要。夜店は交通妨害になる」

つまり、賑わいを求める商店街と、交通の確保を優先する行政との間に、明確な溝があった。

商店街の主張——「戦後、客足が遠のいたのは夜店がなくなったから」

記事によれば、商店街側は「戦後は夜店を呼ばなくなった。それが客足の途絶えた理由だ」と強く訴えていた。
戦前は夜店が大きな集客装置として機能しており、肴町の賑わいを象徴する存在だったのだろう。
しかし戦後の社会情勢や都市機能の変化、そして車の増加は、かつての“歩ける商店街”を徐々に変えていった。

“アーケード前夜”の肴町の姿

現在のアーケード街としての肴町が誕生する前、通りにはスズラン灯が灯り、車馬も普通に往来する生活道路でもあった。
交通量が増えるほど、商店街のイベントは制約を受けていく——
今回の記事は、その転換期にあった肴町の姿をよく伝えている。

歩行者空間と商店街の願い

現代では「歩かせる商店街」は当たり前だが、当時は車馬の通行が優先され、商店街側の思いはすぐには通らなかった。
しかし、この“歩行者のための空間づくりを求める声”こそが、後のアーケード化にもつながる流れの一端だったのかもしれない。

昭和二十六年の肴町。
スズラン灯が照らす通りで、商店主たちがもう一度「賑わい」を取り戻そうと奔走していた姿が、新聞の行間から立ち上ってくる。


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です