アメリカ赤十字青少年部から岩手の子供達にギフトボックス(S25.1.15岩手新報)

昭和25年(1950年)1月15日付の岩手新報に、戦後の空気をよく伝える小さな国際ニュースが載っている。
アメリカの少年少女から贈られた 65個のギフトボックス が、米国赤十字社を通じて日本赤十字社本部に渡り、さらに岩手県支部へと届けられたという記事だ。

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この贈り物の原資となったのは、記事中で「米国青少年赤十字基金」と呼ばれているものだった。
これは、現在その名称では残っていないが、実態としては アメリカ赤十字社の青少年部門(赤十字ユース)が行っていた募金・奉仕活動を、日本側が分かりやすく表現した呼び名と考えられる。

アメリカの赤十字団員である少年少女たちは、自分たちで働いて得たお金を基金に積み立て、戦争や災害の影響を受けた世界各地の子どもたちに贈り物を届けていた。
その支援のかたちは、現金ではなく、実際に使える品物を詰めた「ギフトボックス」という形だった。

箱の中には、石鹸、タオル、歯ブラシといった生活必需品のほか、学童用品や玩具などが入っていたという。
物資不足が続いていた当時の岩手にとって、これらは単なる「ありがたい支援物資」以上の意味を持っていたはずだ。

この仕組みは、後年の日本で広く知られるようになった ユニセフ募金と非常によく似ている。
子どもたち自身が募金に参加し、遠い国の同世代を支える――その思想は、すでに戦後間もない時期のアメリカ赤十字ユース活動の中に存在していた。

ただし、当時の支援はより「顔の見える」ものだった。
現金ではなく、誰かが選び、箱に詰め、船に載せて送った品々。
それは、「助ける側」と「助けられる側」という関係を越えて、子どもから子どもへ直接手渡される気持ちそのものだったと言える。

敗戦から5年。
占領下という複雑な時代背景の中で、この65個のギフトボックスは、国家や政治とは別の場所で芽生えていた市民レベルの国際交流を静かに物語っている。

新聞紙面に写る積み上げられた箱の写真は、戦後岩手に届いた支援物資であると同時に、
「世界はつながっている」という実感を、子どもたちに伝えた象徴的な出来事だったのかもしれない。

昭和史の片隅に残る、ささやかだが確かな国際連帯の記録である。


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