県内各地で愛国献金やら銃後後援会・愛国婦人会の発足やら(S12.9.1岩手日報)

昭和12年9月1日、いまから約90年前の岩手日報の紙面を繙くと、そこには日中戦争の渦中にあった岩手県民の生々しい息遣いが記録されています。当時の社会を象徴する言葉に「銃後」というものがありますが、この日の紙面はその熱狂と切実さを物語るエピソードで埋め尽くされています。

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なかでも人々の胸を打ったのは、盛岡の桜城小学校に通う3名の児童の記事でしょう。彼女たちは現在戦地へ赴いている中尉の令嬢らで、手元にあった2円50銭というお金を盛岡憲兵隊へ献金しました。紙面には彼女たちの写真も添えられており、父の無事を祈り、幼いなりに国を支えようとした健気な姿が当時の読者に強い印象を与えたことが察せられます。この2円50銭という額は、当時であれば白米10kgがちょうど買えるほどの金額でした。現代の感覚に直せば1万円から1万5千円ほどに相当し、子供たちが手にするお金としてはあまりに重く、切実な真心が込められた数字であったことが分かります。

こうした献身の動きは子供たちだけではありませんでした。宮古の第一常盤座では皇軍慰問金を募るための映画会が催され、盛岡市の大沢川原では愛国機「岩手号」を献納するための募集活動として、舞踊と民謡の夕べという催しが開かれました。その催しによる純益は30円にのぼり、全額が寄付されています。また前沢青年団も国防献金として30円をまとめ、水沢警察署へと寄託しました。当時の小学校教員の初任給が50円前後であったことを考えれば、この30円という額は大人の月給の半分を優に超える大金です。現在の価値に換算すれば15万円から20万円ほどにもなるまとまった浄財が、県内各地から次々と寄せられていたのです。

また、この記事は当時の岩手の教育環境についても興味深い事実を伝えています。現在の岩手県内の小中学校は、お盆明けの8月下旬から2学期が始まるのが通例ですが、当時は東京などと同様に9月1日が始業日でした。紙面には「第二学期 けふから」という一文が見え、戦時下という非日常の中にありながらも、新しい季節の節目を迎える子供たちの日常がそこにあったことを示しています。

さらに社会組織の動きも加速しており、盛岡市役所では、市民が一体となって長期的な支援を行うための「盛岡銃後後援会」の発会式が挙行されました。これに呼応するように、水沢釜石といった地域でも「愛国婦人会」の支部が相次いで結成されました。家庭を守る女性たちが組織的に軍を支える体制が整えられていったのです。その一方で、どうしても従軍したいという強い熱情から、指を切り、血で請願書を認めて提出した青年の「血書の嘆」といった激しいエピソードも報じられています。

昭和12年の秋、岩手の人々は大人から子供まで、それぞれの立場で自分にできる限りの方法を尽くし、遠い戦地の兵士たちへ思いを馳せていました。映画や舞踊といった文化的な催しから、子供たちによるお米10kg分の献金、そして地域組織の結成や自らの血で綴った請願まで、この日の紙面に刻まれた一つ一つの事実は、激動の時代を生きた岩手県民の団結と覚悟を今に伝えています。


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