映画「天国と地獄」好評上映中!(S38.3.9岩手日報)

【昭和38年の衝撃】1枚の新聞広告が語る、黒澤映画『天国と地獄』の光と影

今回ご紹介するのは、今から60年以上前、昭和38年(1963年)3月9日の「岩手日報」に掲載された極めて貴重な映画広告です。

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そこには、日本映画史に燦然と輝く黒澤明監督の傑作『天国と地獄』の、地方公開当時の熱狂が封じ込められています。盛岡市の「東宝第一劇場」での公開を知らせるこの紙面を読み解くと、その後の日本社会を揺るがすこととなる「巨大な波紋」の予兆が見えてきます。

「とにかくにもご覧下さい!」

「いま、茶の間で、オフィスで、喫茶店で……これがほんとの映画の面白さだと大評判の映画です!」

1. 黒澤明の「自信」と「異例のお願い」

当時の急速なテレビ普及に対し、「これぞ映画だ」という黒澤監督の圧倒的な自負がコピーから伝わります。注目すべきは、広告右側に配された監督本人による署名入りのメッセージです。

「お願い」
「この映画は、最初からご覧下さい。又、この映画をご覧になった皆様! まだご覧にならないお客様が、より面白くこの映画を見ていただけるように、ストーリーをお話にならぬよう、お願い申し上げます。」

―― 黒澤 明

今で言う「ネタバレ禁止令」です。特急「こだま」での身代金受け渡しシーンなど、緻密に練られたサスペンスの仕掛けを、一瞬たりとも無駄にさせたくないという作り手の執念が伺えます。

2. 文部省が太鼓判を押した「正義のドラマ」

この広告で最も歴史的な皮肉を感じさせるのが、左端に誇らしげに並ぶ「文部省選定」「青少年映画審議会推薦」の文字です。

当時の文部省がこの映画を絶賛し、青少年に推奨した理由は明白でした。誘拐された自分の子ではない、運転手の息子のために全財産を投げ打つ主人公・権藤の高潔な自己犠牲の精神。そして、科学捜査で犯人を追い詰める警察の正義。これらは教育的見地から「道徳的な名作」と見なされていたのです。

3. 「犯罪の教科書」へと変質したリアリズム

しかし、現実は映画以上の悲劇を引き起こしました。黒澤監督が徹底して追求した「リアリズム」が、皮肉にも一部の観客には「完全犯罪のシミュレーション」として受け取られてしまったのです。

繰り返される「手法」の模倣

本作で描かれた「走る列車から現金を落とす」という手法は、本作以降、現実の犯罪で数多く模倣されることになります。

  • 1963年9月: 草加次郎事件
  • 1965年: 新潟デザイナー誘拐殺人事件
  • 1984年: グリコ・森永事件
  • 1993年: 甲府信金OL誘拐殺人事件
  • 2002年: 新城市会社役員誘拐殺人事件
  • 2004年: 大阪パチンコ店部長誘拐事件

映画が落とした「影」

手法の模倣だけではありません。映画そのものに影響を受けて身代金誘拐に及んだ例として、戦後最大の誘拐事件とされる「吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963年3月)」や、1980年の名古屋女子大生誘拐殺人事件などが歴史に刻まれています。

4. 結び:広告が語る「表現の危うさ」

岩手日報のこの広告が掲載されたのは3月9日。奇しくも、日本中を震撼させた「吉展ちゃん事件」が発生するわずか22日前のことでした。

「とにかくにもご覧下さい!」と胸を張った黒澤監督。そして「優秀な映画である」と太鼓判を押した文部省。まさかその数週間後から、この物語が「地獄」のテンプレートとして現実社会を侵食し始めるとは、誰も予想していなかったはずです。

一枚の古い新聞広告。そこには、戦後日本がもっとも熱く、誠実で、そしてもっとも危うかった時代の空気が、そのまま凍結されているのです。

※本記事は昭和38年3月9日付「岩手日報」の広告資料を基に再構成したものです。


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