ロンドン軍縮会議で閣議や四巨頭会談(S5.7.8岩手日報)

昭和5年7月8日:軍縮と不況、揺れる日本の縮図

昭和5年(1930年)7月8日付の「岩手日報」の紙面を広げると、そこには国家の存亡をかけた外交問題と、国民の切実な生活不安が同居する、極めて緊迫した時代の空気が閉じ込められています。


1. 海軍の「四巨頭」が激突した日

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紙面のトップを飾るのは、「海軍四巨頭会議 意見纏まらず散会」という衝撃的な見出しです。
同年4月に調印されたロンドン海軍軍縮条約をめぐり、政府の妥協案を受け入れるか、あるいは拒否するか。海軍内部でも「条約派」と「艦隊派」に分かれ、組織が割れるほどの激しい対立が起きていたことが分かります。

  • 背景:当時の浜口雄幸内閣は、不況対策のために軍事費を削ろうとしていました。
  • 火種:しかし軍部からは「天皇の指揮権(統帥権)を内閣が勝手に制限するな」という「統帥権干犯問題」が突きつけられ、政界は文字通り泥沼の難局に直面していました。

2. 庶民の視線:軍縮よりも「明日のパン」

当時の庶民にとって、軍縮の議論は決して遠い国の話ではありませんでした。しかし、その関心は「国防」よりも、深刻な「昭和恐慌」の中にあったはずです。

庶民の関心事 当時の状況
軍事費の行方 軍事費が削られれば、減税や不況対策に回るのではないかという期待がありました。
失業と貧困 世界恐慌の波を受け、都市部では失業者が溢れ、農村では「欠食児童」が出るほどの惨状でした。
地方の再建 紙面の片隅にある「地方起債の緩和」や橋の架け替え工事といったニュースこそが、生活に直結する希望でした。

3. この新聞のわずか4ヶ月後に起きた惨劇

この7月の時点での「意見の不一致」や「政府への反発」は、最悪の形で結末を迎えます。
同年11月14日、この難局の舵取りをしていた浜口雄幸首相が、東京駅ホームで右翼青年に狙撃されるという事件が発生します。

「国防」と「経済」の板挟みになりながら、民主的な手続きで軍部を抑え込もうとした日本の政党政治は、この昭和5年を境に、急速に軍部の独走を許す暗い時代へと傾いていくことになります。


当時のタイムライン(昭和5年)
* 1月:金解禁断行(昭和恐慌の引き金)
* 4月:ロンドン軍縮条約調印
* 7月:海軍四巨頭会議が紛糾(本日の紙面)
* 11月:浜口首相狙撃事件


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