原敬を暗殺した大塚駅転轍手の家族のその後(昭和5年3月1日)

大正10年11月4日、時の総理大臣であった盛岡出身の原敬は、大塚駅転轍手の中岡艮一の凶刃により暗殺された。

そして中岡には無期懲役の判決が下された。

それから9年。

昭和5年3月1日の岩手日報には、その中岡艮一の家族のその後が掲載されている。

「無期懲役」と言いながら、出所が近いというのだ。

51歳になる母親は、大塚駅近くで「世の迫害を受けつゝも生活戦線と戦って」支那そば屋を営んでいた。

いわく、

(出所について)未だ何の通知もありません。
本当に夢のようです。
艮一からは昨年の9月に無事で暮らしているとの便りがあったきりです。
本当に出られるのでしょうかね。

そのように喜びを見せていた。

ただし、事件に関してはかなり疲弊させられているようだった。

もうあれが入獄して以来、おちおち眠ったこともない。
14年前に夫(艮一の父)がなくなり、間もなく三男、次女が続けて亡くなった。
その上にあれがあんな大それたことをしてくれて気も狂いそうだった。
あの9年前の11月4日、お針事をしていると刑事がドカドカ踏み込んできた。
そして事情を話され全くボーっとなった。
その後家をたたんで子供を連れて親戚中をあちこち身を寄せた。
いっそ死んでしまおうかと思ったこともある。
長女はミシン屋に弟子入りさせたがあの子にも苦労掛けた。
私は他の家の裁縫や洗濯をして暮らしていたが、数か月であの中岡艮一の家族ということがばれてしまい、貸家も断られてしまう。
「中田」「中野」と苗字を変えても子供の小学校ではバレてしまう。
パン屋やタバコ屋を出してもさっぱり売れず、食べるものもなく泣き明かしたことだってある。
3日ぐらい食べすにいたこともある。
それでも昨年死亡した兄からもらった500円で支那そば屋を始めた。
艮一が出所するなら木綿の着物でも買ってやりたいが、迎えに行く旅費もない。
新聞で見れば艮一はお寺に入りたいと言っているようなので私はあきらめている。
ただ道心堅固で暮らしてくれればいい。
最近は私は体を無理したので神経痛で苦しんでいる。

 

ところで、その後の当の艮一はどうしたのか。

  • 3回の恩赦があり、昭和9年に出獄。
  • 満州にわたり陸軍司令部に勤務。
  • 昭和12年にイスラム教に改宗。
  • 昭和16年、回族女性と結婚。
  • 戦後帰国
  • 昭和55年死去。77歳。

陸軍司令部に勤めるなどは、殺人を犯した「前科者」とは思えない好待遇である、

このあたりが、原敬暗殺を何かの陰謀であるとする向きもあるゆえんである。

 


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