岩手開発鉄道がやってきた!ヤァ!ヤァ!ヤァ!
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岩手開発鉄道の車両が来た喜びからすべて気仙モノで更新。
今日のとど鉄
岩手開発鉄道がやってきた!ヤァ!ヤァ!ヤァ!
ここで岩手開発鉄道の思い出を。
あれは小学校6年生位の頃だったと思う。
旅客輸送最末期の岩手開発鉄道は、岩手石橋までが2往復、日頃市までの間が1往復の合計3往復だったと思うが、昭和の頃だと、岩手石橋までが3往復、日頃市までが2往復の合計5往復あった。
5往復あった頃なので、真ん中の昼の便に乗ることができたのである。
まず、三陸鉄道で盛まで行った。
三陸鉄道と大船渡線のように、構内で乗り換えるとか言うわけではなく、いちど盛駅を出て、踏切を渡ったところにぽつんと岩手開発鉄道のホームはあった。
切符売り場は、ホームズにぽつんとあったが、発車までまだ時間があったので、駅員はいなかった。
発車時刻が近づくと、事務所の方から高木ブーに似た駅員が歩いてきた。
盛から岩手石橋までは110円。そもそも旅客輸送に一切期待していなかったので、ここまで安かったのである。
「岩手石橋まで子供1枚」と頼むと、端数切り捨ての50円でも端数切り上げの60円でもなく、55円だと言う。
55円払って、車内補充券のような赤ペンで丸をつける乗車券を受け取った。
他の曲は、マニアが数人いたのではないかと思う。
いよいよ岩手開発鉄道の旅が始まった。
次の猪川からは、女子高生が数人乗ってきた。
おそらくは日頃市中学校出身の生徒なのだと思うが、心底うらやましいと思った。
男子生徒が乗ってこないのは、男子は自転車で通うのは普通だから、と言うことだったのだろうか。
言わずと知れた事実として、岩手開発鉄道は石灰石輸送がメインであり、石灰石列車は1時間に1本走っているはずだった。
しかし、長安寺でも日頃市でも貨物列車とすれ違う事はなかった。
年末年始は一切走っていないようだった。
その当時からすでに、岩手開発鉄道は「マニアの乗り物」として認知されていたようで、社会には「旅のノート」が据え付けられていた。
柳沢慎吾に似た運転士が「よかったら書く?」と勧めてくれた。
その柳沢慎吾に似た運転手が言うには、「本当は旅客輸送なんて辞めちゃいたいんだよね。だって100円稼ぐのに700円かかるんだよ」とのこと。
つまり営業係数700ということ。
ちょうど国鉄が分割民営化するのしないのと言う時期、ある程度以上の鉄道マニアであれば、営業係数はすぐにわかる数字だった。
でもその時思ったのは、「添田線とか美幸線よりマシじゃん」と言うことだった。
国鉄分割民営化に際し廃止された添田線や美幸線など、2500か3000かという数字だったはずである。
それで感覚が麻痺していたためか、子供心にはまだがんばってよと言う感想しか持ってなかった。
そして終点の岩手石橋に到着しようとしていた。
終点の岩手石橋は、旅客駅はスイッチバックしないと到着できないような構造になっていた。
かつて、新潟県の赤谷線の終点・東赤谷駅もこのような構造であったと聞く。
岩手石橋駅は、まるで民家のような2階建ての駅だった。
その岩手石橋駅で、帰りの切符を55円で買った。
そんな岩手開発鉄道の旅だった。