b二戸・二戸郡 4月 20日 1958 福岡町上斗米に警察署長も注目の防犯組織 昭和33年4月20日の読売新聞岩手版では、二戸郡福岡町上斗米に伝わる防犯組織について紹介している。 それは「上斗米青年淬砺会」というのだそうで、なんと藩政時代から伝わるのだという。 男子は中学卒業とともに入会 40歳で定年 その定年前でも、戸主となれば上部組織の「報徳会」入りし、「捕縄」を持つことが… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 18日 1958 久慈川の用水改良が6年越しに完成へ(昭和33年1月18日) 昭和33年1月18日のデーリー東北より。 久慈川の用水改良工事は、岩手県の土地改良事業の中でも最大のプロジェクトと位置付けられていたが、その難工事が大詰めに達したという。 この工事の完成により、年間2,700石の増産が見込めるという。 ところで、この2,700石とは、現在の基準で言えばどのくらい?と… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 17日 1958 種市港に第1ケーソン竣工(昭和33年1月17日) 昭和33年1月17日のデーリー東北より。 種市港は修築工事を進めていたが、このほど第1号ケーソンが竣工したという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 12日 1958 久慈港から玉の脇岸壁に至る諏訪海岸線道路が九分通り舗装(昭和33年1月12日) 昭和33年1月12日のデーリー東北より。 久慈建設事務所では久慈港から玉の脇岸壁に至る諏訪海岸線道路の舗装工事が九分通り完了した。 大しけの度に泥んこになる状態がこれで解消するという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 12日 1958 種市町に初の下水道(昭和33年1月12日) 昭和33年1月12日のデーリー東北より。 下水道の無い種市町の駅前通りは、街中に汚水が流れ泥んこ状態であったという。 それで、昭和32年から2ヶ年計画で下水道工事を進めていた。 消火用水路を兼ねるもので、国庫補助5割で昭和32年度は駅前の200メートルが完成するという。 というか、下水… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 11日 1958 久慈・玉の脇川に砂防ダム(昭和33年1月11日) 昭和33年1月11日のデーリー東北より。 この時期、玉の脇漁港はサバの漁場として注目を浴びていたようである。 しかし、玉の脇川の土砂が流出し、岸壁付近が年々浅くなって行っていることから、玉の脇川に砂防ダムを建設していた。 そして二年掛かりで建設し、第一砂防ダムが完成したというのである。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 17日 1957 久慈市の山内市長が北京へ出発(昭和32年10月17日) 昭和32年10月19日のデーリー東北より。 北日本港湾都市市長団の三役として、中共の北京市の招きで10月23日に羽田国際空港から香港経由で旅立つ久慈市の山内市長は、10月17日13時市役所前から市長専用車で市役所前を出発した。 市長は「1ヵ月の間、を留守にしますが、皆さん元気で勤めをお願いします。戦… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 17日 1957 八戸の漁船3隻が岩手県警の警備船に捕まる(昭和32年10月17日) 昭和32年10月18日のデーリー東北より。 海上パトロールしていた岩手県警の警備船「さんりく」は、九戸海域に出没していた密漁船を逮捕して、久慈の玉の脇港に引き上げた。 これらの密漁船は、久慈市宇部町三崎トドが岩 3マイル海上の野田湾海域で、禁止漁業の底引き網を使用して、ナメタガレイなどを密漁していた… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 15日 1957 久慈市長の訪中に際し壮行会(昭和32年10月15日) 昭和32年10月17日のデーリー東北より。 北京市長の招きで、「北日本港湾都市市長団」の三役として久慈市長も中国に行くこととなった。 それに対して、10月15日、市役所別館にて壮行会が150人を集めて行われた。 市長は「漁業、水産物の交易とコルホーズが中国ではどのようになっているかを見極めたい。また… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 14日 1957 安家村の薪は引っ張りだこ(昭和32年10月14日) 昭和32年10月14日のデーリー東北より。 10月になると冬の支度が盛んになる。 木材や製炭材が安くならず、高い木炭を使うよりは薪ストーブを利用しようと言う例が多くなっていると言う。 相場としては、ナラ材で久慈市内では4000円前後、山形村でも3200円前後、雑木でも2700円と言う強気だったと言う… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10月 13日 1957 久慈・巽山公園で三船久蔵記念館の地鎮祭(昭和32年10月13日) 昭和32年10月15日のデーリー東北より。 久慈出身の柔道家・三船久蔵十段の偉業を顕彰し、久慈市内の巽山公園に三船久蔵記念館を建設しようと言う計画が立った。 その地鎮祭には、三船十段本人も隣席して行われることになった。 席上、三船銃弾は「私は今度建設される敷地に昔建てられた郡役所の給仕を勤めていたこ… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 8月 15日 1957 改良「無煙かまど」で仁徳天皇の故事は古くなりました!(昭和32年8月15日) 昭和32年8月15日の岩手民声新聞の広告欄より。 この時期は電気炊飯器など一般的ではなかった時期なので、普通にかまどが広告を出している。 これは無煙かまどだそうで、いわく「仁徳天皇の故事も古くなりました」という。 仁徳天皇の故事とは? それは、仁徳天皇が町を見渡すと家々のかまどから煙が立っていない。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 6月 26日 1957 旧渋民村民「合併したらなんで村名が玉山村なの…」 「昭和の大合併」で多くの町村が合併したが、その悲喜こもごもを昭和32年6月26日の読売新聞は報じている。 青森県十和田市は三本木市から改名したら、上北郡十和田町や秋田県十和田町と混同されるように。電話局も「十和田局」となり、「十和田湖局」と混同されるようになった。(当時は自動電話ではなく、まず交換手… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 31日 1957 県立図書館は本が増え過ぎて整理が追い付かない(昭和32年5月31日) 昭和32年5月31日の岩手日報より。 県立図書館は大正11年に創設されたが、この当時は蔵書素は15,000冊だった。 そして蔵書は増え、昭和23年には60,000冊になり、整理がつかなくなり屋上にまで積み重ねられる事態となった。 そして昭和32年の時点では、100,000冊に達していた。 それで、未… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5月 28日 1957 興安丸の引き揚げ家族が「初めての帰郷」(昭和32年5月28日) 昭和32年5月28日の岩手日報より。 戦後中国で結婚した日本人が、興安丸で一時帰国した。 特に、現地で生まれた子供は日本など初めてであり、緊張していたようだ。 … 続きを読む
l全県 5月 27日 1957 中国からの一時帰国者が急行「おいらせ」で帰郷(昭和32年5月27日) 昭和32年5月27日の岩手日報より。 終戦後も中国に居着いたままになっていた岩手県関係者が、急行「おいらせ」で帰宅するという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 20日 1957 ソ連の核実験で盛岡でも放射能が6665カウント(昭和32年4月20日) 昭和32年4月20日の岩手日報より。 ソ連の核実験が伝えられ、上空のジェットの風下にあたる日本でも、戦々恐々となっていた。 そのような中、盛岡でも6665カウントの放射能が観測されたのだと言う。 ちなみに、カウントとベクレルの単位については以下のページを参照。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 4月 18日 1957 遠野署が釜石線の列車でヤミ米46俵押収(昭和32年4月18日) 昭和32年4月19日の岩手日報より。 遠野警察署は3年ぶりに釜石線でのヤミ米の取り締まりに乗り出したという。 遠野駅を14:08に発車する釜石行きの415列車を急襲、釜石へ運ぼうとしていたヤミ米134包、2760kgを押収し、釜石市内の男1名、女4名を食糧管理法違反で逮捕した。 列車の網棚や椅子の下… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 3日 1957 岩手にも被爆者がいた(S32.4.3岩手日報) 広島の原爆から12年が経ったが、原爆症で療養している人は岩手にもいた。 原爆から8年が経過した昭和28年ごろ発病し、この時点で毎日輸血が必要な体になっていたのだという。 この時期、イギリスではクリスマス島で水爆実験を行うということが話題になっており、この抗議として「この体を見ろ」と取材に応じたもの。… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 4月 2日 1957 「八甲田山死の行軍」生き残りの水沢の男性が78歳で死去(昭和32年4月2日) 昭和32年4月2日の岩手日報より。 「八甲田山死の行軍」を、両足切断しながら生き残った水沢の男性が、78歳で肺炎で死去したという。… 続きを読む
m県外・参考 4月 1日 1957 花輪線の小豆沢駅は「八幡平駅」になります 昭和32年4月1日の岩手日報より。 秋田県鹿角郡は秋田県ではあるものの「陸中国」となる。 そのせいでか、岩手銀行や東北銀行の支店があったり、鹿角郡のニュースがこのように掲載されたりする。 その秋田県鹿角郡の宮川村と曙村は前年の昭和31年6月15日に合併し「八幡平村」となっていた。 そこで、花輪線の小… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1月 5日 1957 東北各県の県都の正月風景(昭和32年1月5日) 昭和32年1月5日の河北新報岩手版より。 さすがは河北新報だけに、東北各地を俯瞰している。 左上;山形市内の目抜き通り 左下:福島市内の児童公園の冬籠もり 中央:青森市役所新庁舎から見た市内。 右上:盛岡市中ノ橋通り 右下:秋田市中央通りと 久保田町 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1月 3日 1957 川村松助北海道開発庁長官がお国入り(S32.1.3河北新報岩手版) 石橋内閣で北海道開発庁長官に任命された岩手県選出の川村松助がお国入りし。盛岡駅で万歳三唱した。 ちなみに、当時の盛岡の2大デパートであった「川徳」「松屋」の創業者は兄弟で、松屋の「松」は川村松助の松。… 続きを読む
m県外・参考 4月 28日 1956 北洋船団が函館を出港(昭和31年4月28日) 昭和31年4月29日の岩手日報より。 日ソ漁業交渉が難航する中、北洋サケ・マス船団はベーリング海に向けて函館を出港して行った。 この中には岩手県の漁船も多く含まれている。 ちなみに、日ソ漁業条約はこの5月に成立することとなった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 24日 1956 八甲田山死の行軍の生き残りの大工が厚生大臣表彰(S31.4.24岩手日報) 明治35年の「八甲田山死の行軍」で吹雪に見舞われながらも、両手の指と両足を失いながらも生き残った大工が厚生大臣表彰されることになったという。… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 4月 23日 1956 北洋サケ・マス独航船が釜石や宮古を出発(S31.4.23岩手日報) この時期、ソ連が北洋漁業に関して制限を設けるなど、北洋漁業は緊迫した情勢になっていた。 そのような中を、釜石港や宮古港からサケ・マスの独航船が次々と悲壮な覚悟で出発をしていった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 4月 22日 1956 交通安全足もと見れば(昭和31年4月22日) 昭和31年4月22日の岩手日報より。 交通安全に関する写真記事ではあるが、当時の盛岡の道路の様子がわかってもらえるだろう。 … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 3月 20日 1956 合併したばかりの江刺町で早くも分離騒ぎ(昭和31年3月20日) 昭和31年3月20日の河北新報岩手版より。 昭和30年2月に、江刺郡岩谷堂町外が大同合併して江刺町が発足したものの、早くも不協和音が発生し、東部の米里・玉里・伊手・藤里の4ヵ村が江刺町からの分離を希望し始めた。 これは、新町建設の際に生まれた赤字を、この4ヶ村の村有林を処分することで埋め合わせされた… 続きを読む