一関・開かずの五十人町踏切を移転へ(昭和33年7月4日)

昭和33年7月4日の岩手報知より。

この当時、東北本線の複線化は着々と実現しており、昭和33年度のうちには前沢〜水沢の複線化が完成する予定であったと言う。

また、この区間は、盛鉄局で初めてと言われるコンクリート枕木を使用することになったのだが、このコンクリート枕木は、技術を要するものであるだけに工事も遅れているのだと言う。

一関保線区でも、近く五十人町踏切や磐井川鉄橋の複線化に伴う具体的な打ち合わせをすることになった。

県道一関気仙沼線の五十人町踏切問題は、客車や貨車の入れ替えが激しく、開かずの踏切であり地元の人たちの長年の課題であった。

もともとは、現状のままで複線化する予定であったところ、ダイヤ改正で特急が一ノ関駅に停車するようになったために、国鉄東北支社では、この五十人町踏切を修紅高校付近に移転することにしたのである。

県道一関気仙沼線は、内陸と沿岸を薄く主要地方道路として沿岸経済発展のキーポイントとなっており、交通量は一関建設事務所管内で最も多くなっていた。

それで、トラックやバスが東地主町から五十人町まですらりと立ち往生する時が多かったなどと言う。

 

 

 


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