a盛岡・岩手郡・紫波郡 2月 24日 1959 盛岡駅でヤミ米の手入れがあり担ぎ屋10人逮捕(昭和34年2月24日) 昭和34年2月25日の河北新報岩手版より。 盛岡警察署では、盛岡市内にヤミ米が相当流れ込んでいるとの情報を得た。 そこで2月24日、盛岡署員20名が盛岡着7:56、8:58の下り列車を急襲し一斉取り締まりを行った。 置き去り米を含めて押収した精米は757kg(61,000円相当)であったという。 そ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 2月 7日 1959 3月から花輪線に「やまびこ」より新型のディーゼルカー(昭和34年2月7日) 昭和34年2月7日の河北新報より。 3月から花輪線に「上がトビ色、下が濃いアイ色で、緑のサテンのカーテンの付いた」ディーゼルカーがお目見えするという。 このことで、花輪線は朝夕の通勤帯を除き全部がディーゼルカーになるという。 この記事では、当時盛岡~福島を走っていたキハ55準急「やまび… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 19日 1958 国鉄盛岡工場で新製材工場 国鉄の盛岡工場は、これまで二枚橋派出所(現在の花巻空港駅)にあった製材関係の工場を、盛岡駅裏の本場に移し、一部作業をすでに始めているという。 これは経営の合理化によるもので、客車の床などに使用するのだという。 国鉄盛岡工場は敷地の狭さが悩みであり、それで作業場がタコ足で分散していたところ、盛岡市の協… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12月 9日 1958 これがディーゼル準急に使われる「キハ55」だ!(昭和33年12月9日) 昭和33年12月9日の岩手日報より。 翌年から、盛岡〜福島に運行が予定されているディーゼル準急「くりこま」に使用されるキハ55というディーゼルカーが盛岡客貨車区に到着した。 クリーム色に赤い線というスマートな車体で、自動暖房装置が付いているという快適な車内である。 &nb… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 7月 26日 1958 「全国第二の町」江刺町の鉄道計画(昭和33年7月26日) 昭和33年7月26日の岩手民声新聞より。 昭和30年に岩谷堂町を中心に江刺郡の町村を大同合併した江刺町は、人口5万を超え「全国第2の町」となっていた。 しかし、悲しいかな鉄道だけが無いのだ。 それで、工場誘致や総合開発でどれだけ悲哀を味わわされてきたことか。 それで、昭和15年には岩谷堂町・伊手村・… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 4日 1958 一関・開かずの五十人町踏切を移転へ(昭和33年7月4日) 昭和33年7月4日の岩手報知より。 この当時、東北本線の複線化は着々と実現しており、昭和33年度のうちには前沢〜水沢の複線化が完成する予定であったと言う。 また、この区間は、盛鉄局で初めてと言われるコンクリート枕木を使用することになったのだが、このコンクリート枕木は、技術を要するものであるだけに工事… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 5月 20日 1958 水沢女子高の教諭が関東以北で初めてのオランダミミナグサを発見(昭和33年5月20日) 昭和33年5月20日の岩手日報より。 植物研究家でもある水沢女子高の教諭が、水沢警察署裏の北常盤踏切で「オランダミミナグサ」を発見したという。 このオランダミミナグサは、本来はヨーロッパにだけ生えている雑草であるところ、戦後は東京や横浜でも存在が確認されていた。 これは、戦後になってヨーロッパとの貿… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 4月 26日 1958 花巻電鉄に新車導入 昭和33年4月26日の岩手日報では、「温泉郷結ぶ近代車」として、花巻電鉄に新車が導入されたことを報じている。 岩手日報(昭和33年4月26日)より 新たにお目見えしたのは、日本車両で製造されたのだという。 現在、花巻市材木町公園に保存されている「馬面電車」と違って、さほど幅の狭さは目立たない。 この… 続きを読む
g北上・和賀郡 5月 31日 1957 夏油温泉は森林軌道に乗って(昭和32年5月31日) 昭和32年5月31日の岩手日報より。 北上の山奥にある夏油温泉に行くためには、営林署のトロッコに便乗していくのが普通だったようである。 営林署の貯木場までバスで行き、そこから先は森林軌道のトロッコで行く感じだったのだろうか。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 4月 2日 1957 三陸沿岸は絶好の潮干狩り日和(昭和32年4月2日) 昭和32年4月3日の岩手日報より。 4月2日は旧暦3月3日で桃の節句。 三陸沿岸は好天に恵まれ潮干狩り日和となり、盛鉄局は山田線や八戸線に臨時列車を出して潮干狩り客をさばいたという。 写真は大槌町の洲崎海岸で、5,000人の人出でにぎわったという。 釜石市の鵜住居海岸でも3,000にんの人出でにぎわ… 続きを読む
l全県 4月 1日 1957 国鉄運賃の改定で手荷物運賃も変わります 昭和32年4月1日の岩手日報より。 国鉄運賃の値上げで手荷物運賃も変わることに。 ただ、5kgまでという新区分ができたことで、少量で近距離の輸送には便利になったとしている。 しかし、大口で遠距離の場合大幅な値上げになるという。… 続きを読む
m県外・参考 4月 1日 1957 花輪線の小豆沢駅は「八幡平駅」になります 昭和32年4月1日の岩手日報より。 秋田県鹿角郡は秋田県ではあるものの「陸中国」となる。 そのせいでか、岩手銀行や東北銀行の支店があったり、鹿角郡のニュースがこのように掲載されたりする。 その秋田県鹿角郡の宮川村と曙村は前年の昭和31年6月15日に合併し「八幡平村」となっていた。 そこで、花輪線の小… 続きを読む
b二戸・二戸郡 1月 10日 1957 貨車不足で北福岡駅から木炭が出荷できず(昭和32年1月10日) 昭和32年1月10日の河北新報岩手版より。 この当時、二戸の木炭は東京駅頭渡しで500円と言う高値を記録していた。 しかし、貨車不足のために1車も出せなかったと言う珍しいことになってしまった。 二戸地方では、年間200万俵の木炭を生産していたが、ほとんどは農業との掛け持ちなので、前年の家は1ヶ月ぐら… 続きを読む
l全県 1月 3日 1957 岩手県内の公共企業体から新年の挨拶(昭和32年1月3日) 昭和32年1月3日の河北新報岩手版より。 岩手県内の公共企業体… 国鉄や専売公社などから新年の挨拶広告。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 7月 11日 1956 海というものを初めて見た山の分校の子供「なんて広かんべぇ!」 昭和31年7月11日読売新聞夕刊より。 下閉伊郡安家村の安家小学校坂本分校では7月2日に、宮古の浄土ヶ浜への修学旅行が行われた。 そもそも、安家村の坂本地区とはどのような場所であるか。 木炭や林業の村であったが、現金収入が非常に少ない部落であった。 「日本のチベット」と呼ばれる地域である。 最近、文… 続きを読む
c久慈・九戸郡 2月 23日 1956 3月からの八戸線ダイヤ(昭和31年2月23日) 昭和31年2月23日のデーリー東北より。 この年の3月からの八戸線のダイヤを掲載している。 八戸線は線形が平坦で、早くからガソリンカーが導入されていた。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 2月 7日 1956 釜石線でヤミ米55俵を押収(昭和31年2月7日) 釜石警察署は、陸中大橋駅で7:10に到着した下り321列車と、9:05に到着した311列車を急襲し、うるち米2,960kg、もち米400kgの系55俵分を押収し、2名を検挙。 当時の食糧管理法では、戦後を引きずって米価はまだ国が統制している頃で、それ以外の流通は認められなかった。 これが、この年以降… 続きを読む
g北上・和賀郡 2月 5日 1956 和賀地方では近年にない豪雪でバスが走れず馬ソリ出動(昭和31年2月5日) 昭和31年2月7日の河北新報岩手版より。 それでなくとも湯田村や沢内村といった和賀郡西部は岩手県内で最も積雪のある地方であった。 ところがこの冬は、それに輪をかけた豪雪となり、湯田村川尻では5日現在で230cmと数十年ぶりの記録的な豪雪であったという。 これでは車は走れず、郵便配達人や警察官はスキー… 続きを読む
c久慈・九戸郡 2月 2日 1956 久慈や八戸の行商は新しいディーゼルカーに統制して乗りましょう(S31.2.2デーリー東北) 昭和31年3月から、八戸線には新しいディーゼルカーが導入されることとなった。 これは10系気動車であるが、称号規程改正以前なので「四五〇〇〇型」となっている。 それで、行商組合では「統制して乗車しましょう」と取り決めたのであった。… 続きを読む
g北上・和賀郡 1月 27日 1956 横黒線にジョルダン式雪かき車が出動(昭和31年1月27日) 昭和31年1月29日の岩手日報より。 岩手県内でどこが最も雪が積もるかといえば、何といっても西和賀地方である。 その西和賀地方を走る北上線―――当時の呼び方であれば横黒線はこの年も除雪に苦労していた。 それで、横黒線にはラッセル車どころかより広幅のジョルダン式雪かき車が配属されていた。 この年は「例… 続きを読む
i一関・西磐井郡 1月 22日 1956 一ノ関駅に停車中の列車の中から嬰児の死体(昭和31年1月22日) 昭和31年1月25日のデーリー東北より。 1月22日、23時55分ごろ、東北本線の一ノ関駅に停車中の上り146列車の車掌室の椅子の下から、男の赤ちゃんの死体が発見されたのである。 恐ろしい話ではあるが、なぜ一関の話が八戸のデーリー東北で報じられたのか? それは、生の証言より、古間木〜三戸の間で持ち込… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1月 8日 1956 八戸線にディーゼルカーを増強(昭和31年1月8日) 昭和31年1月8日のデーリー東北より。 盛鉄局では、八戸線の旅客輸送が増えてきたので3月1日から新ディーゼルカーを増強する予定であると言う。 この時点で、ディーゼルカーは5両あったと言うが、それに新車を運転9両加えれば14両となる予定。 ディーゼルカーは、尻内から久慈の間を運転する予定であるが、尻内… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 11月 20日 1955 新米のシーズンは担ぎ屋のシーズン 昭和30年11月20日の岩手日報より。 遠野地方の穀倉地帯では、新米のシーズンになると、釜石や大槌あたりから列車に乗って担ぎ屋が大挙して来るという。 農家としても、供米よりも現金化が早いので、1升95円程度の安値でも売るのだという。 さながら、釜石線の列車は「担ぎ屋列車」の様相を呈していたという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 17日 1955 山田線の捨て子(昭和30年11月17日) 昭和30年11月17日。 宮古発盛岡行きの411列車が区界駅に到着しようとした時のこと。 車掌が検札していると、小さい女の子が泣いている。 どうやら迷子になったらしい。 親の名前を聞いても、それどころか自分の名前すら言えないらしい。 これはいったいどうしたものか・・・ 盛岡に到着し、とりあえず中央児… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 16日 1955 山田線の赤字はすでに3億円(昭和30年11月16日) 昭和30年11月16日の岩手日報より。 前年、やっとのことでアイオン台風の被害から復旧し全線開通はしたものの・・・ 岩手日報の表現をそのまま使えば、「あまりにもみじめであり、栄養失調寸前のうきめに会っているという情ない現状だ」とまで言われる状況であった。 盛鉄局管内には12の路線があったが、営業成績… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11月 13日 1955 汽笛のまにまに 盛岡駅の24時間 昭和30年11月13日の岩手日報では、盛岡駅の24時間を1ページ内の写真で大々的に報じている。 盛岡駅はまだ「民衆駅」ですらなく、木造駅舎だった時代である。 盛岡駅の朝は、担ぎ屋のおばちゃんから始まる。 20貫(75kg)もの荷物を担いで数里の道も歩くのだという。 彼女たちは、「どっこいしょ」と座っ… 続きを読む
c久慈・九戸郡 11月 9日 1955 じぇじぇじぇ!?久慈駅に10系気動車? 昭和30年11月9日の岩手日報より。 八戸線に新しいディーゼル・カーがお目見得するのだという。 その名は45000形。 つまり車両称号変更前の番号である。 八戸線は山田線や釜石線に比べたら、はるかに平坦な路線なのでディーゼル・カーの導入も早かった。 記事では「待浜駅付近の急勾配がネックだが」と書いて… 続きを読む
g北上・和賀郡 8月 12日 1955 気仙沼花火大会と北上灯ろう流しに臨時列車(昭和30年8月12日) 昭和30年8月12日の河北新報岩手版より。 盛鉄局旅客課では、8月14日の気仙沼花火大会と、8月16日の北上灯ろう流しで以下の通り臨時列車を運行するという。 8月14日 574レ 気仙沼22:24~陸中松川23:56 8月16日 4711レ 北上22:02~陸中川尻23:13 467レ 北上21:0… 続きを読む
i一関・西磐井郡 7月 1日 1955 東北本線に清水原駅開業 花泉町にある清水原駅は、昭和19年の開設当初は信号場であったところ、地元民や隣接の金沢村によって駅昇格運動が起こっていた。 そうしたところ、いよいよ7月1日に駅として開業することとなったのである。 費用は全額地元負担で、鉄道側の組んだ予算は495万円、そのうち70万円の人件費は地元の人たちの労力奉仕… 続きを読む
i一関・西磐井郡 6月 20日 1955 一ノ関機関区か1千万キロ無事故達成 昭和30年6月21日の岩手日日新聞より。 一ノ関機関区は、青森発上野行112列車の一ノ関駅到着をもって、1千万キロ無事故を達成した。 一ノ関駅では、一関市長や盛鉄局長まで参列して盛大に記念セレモニーが開催された。 ところで、この頃の東北本線の普通列車はC57が牽引していたらしい。 &n… 続きを読む