e釜石・遠野・上閉伊郡 12 5月 1959 「県内一の老朽校舎」戦時建築の釜石高校を改築して(昭和34年5月12日) 昭和34年5月22日の岩手東海新聞より。 釜石高校の校舎は「県内一の老朽校舎」と言われていた。 そんな老朽校舎はどれだけ古いのか? 大正6年に建築され「白堊城」と呼ばれた盛岡一高の校舎より古い? 釜石高校の校舎は昭和18年の建築で築16年。 「老朽化」と言うほどではないが、昭和20年の艦砲射撃にも遭… 続きを読む
i一関・西磐井郡 30 3月 1959 集団就職の第4陣が一ノ関駅を出発(昭和34年3月30日) 昭和34年3月31日の岩手報知より。 中学校を卒業して集団就職する若者の第4陣が、3月30日19時51分、臨時列車で一ノ関駅を出発した。 人数としては、一関職安管内で230名余り、水沢・千厩職安管内も合わせると600名余りとなったという。 これに先立って、14時から就職者を一関小学校の講堂に集め、菅… 続きを読む
i一関・西磐井郡 28 3月 1959 一関の夜間私立高校・関城工業高校が二次募集(昭和34年3月28日) 昭和34年3月28日の岩手報知より。 一関の私立夜間高校である関城工業高校が二次募集をかけている。 経営母体は一関学院なので、後年の一関商工高校、令和4年現在の一関学院高校となる。 同じ経営母体の一関商業高校と合併して「一関商工高校」となるのは昭和38年のこと。 この時点で、公立の一関工業高校は開校… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 24 3月 1959 県教育会館で中卒就職者の激励会(昭和34年3月24日) 昭和34年3月25日の河北新報岩手版より。 この年に中学校を卒業して社会に出る就職者の為に、3月24日13時から県教育会館で「就職者激励会」が行われた。 就職者700名、県職安課長、山本盛岡市長など来賓が多数列席した。 山本盛岡市長からは「立派な社会人になるよう修行してもらいたい」という激励のあいさ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 24 2月 1959 初めての公認予備校「竜沢予備校」が開校(昭和34年2月24日) 昭和34年2月25日の河北新報岩手版より。 昭和28年ごろから、「竜沢学習研究会」が盛岡市内の浪人生を相手に授業をしていた。 それを、父兄や生徒の要望を入れ、県公認の「竜沢予備校」として2月24日に開校の運びとなったものである。 この時点で生徒は大学受験組が6名、高校受験組が200名いた。 3月の新… 続きを読む
j東磐井郡 23 2月 1959 東山町の長坂中学校では修学旅行の旅費を稼ぐためにかくし芸大会(昭和34年2月23日) 昭和34年2月23日の河北新報岩手版より。 東山町の長坂中学校では、毎年5月に東京・日光方面に湯修学旅行に行くのが常であった。 しかし、旅費は1人当たり4千円、服やカバンを揃えると6~7千円は必要であり、この負担に耐えられない1割ぐらいの生徒は、修学旅行に参加できなかった。 そんなまず牛居生徒達でも… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 18 12月 1958 岩谷堂小の新校舎が完成 昭和33年12月18日の岩手日報より。 江刺市の岩谷堂小学校は1月15日の火災で焼失し、岩谷堂中学校の特別教室の間借りや2部授業でしのいでいたが、このほど鉄筋コンクリート3階建ての校舎が完成した。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 5 11月 1958 就職するのか高校に行くのかどっちかにして(S33.11.5岩手報知) 昭和33年当時は高校進学率も低く、中卒者の労働市場があった。 ところが、高校に行くことになったので内定を蹴るとかもあったようで、職安も雇用主も頭の痛い問題だったようだ。… 続きを読む
i一関・西磐井郡 5 10月 1958 一関の高校生にアンケート「高校の大学予備校化をどう思う?」(昭和33年10月5日) 昭和33年10月5日の岩手報知より。 大学の受験戦争は、年々激化しており、予備校に1年か2年通える事はやむを得ないと言う価値観が広がっていた。 高校としても、何とか大学に進めたいと学力コンクールや模擬テストを行って学力の向上に努めており、この結果高校は大学の予備校化していると言われるようになった。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 6 9月 1958 2学期の始まった一関中学校(昭和33年9月6日) 昭和33年9月6日の岩手報知より。 ここでは、一関中学校にも2学期が始まった旨を報じている。 この時期、県内では勤務評定反対闘争(勤評闘争)、道徳教科組み入れなどで、教員組合がやたら逃走していた。 道徳教科組み入れなどで、教員組合がやたら逃走していた。 しかし、生徒もこの先の進学や就職で忙しいと言う… 続きを読む
i一関・西磐井郡 18 8月 1958 海を見たことのない祭畤の子供たちを気仙沼へ(昭和33年8月18日) 昭和33年8月18日の岩手報知より。 岩手県内で最も降水量が多いのは、一関の山奥の「祭畤(まつるべ)」であるが、あまりに隔絶した山奥であり、子供たちは海を見たことがないというので、気仙沼の一青年が旅費を出して海に連れて行こうというもの。 … 続きを読む
i一関・西磐井郡 6 7月 1958 一関地区の中学校では免許外担当授業の教員が半数以上(昭和33年7月6日) 昭和33年7月6日の岩手報知より。 岩手県教組西磐井支部では、勤評と定員増の運動資料とするために、中学校の免許外教科の担当状況調査を進めていた。 その状況は、中学校教員の240人中129人が免許外を担当しており、割合が53%に上っていた。 週の時間数はのべ1,142時間で、免許外教科はのべ711科目… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 20 5月 1958 水沢女子高の教諭が関東以北で初めてのオランダミミナグサを発見(昭和33年5月20日) 昭和33年5月20日の岩手日報より。 植物研究家でもある水沢女子高の教諭が、水沢警察署裏の北常盤踏切で「オランダミミナグサ」を発見したという。 このオランダミミナグサは、本来はヨーロッパにだけ生えている雑草であるところ、戦後は東京や横浜でも存在が確認されていた。 これは、戦後になってヨーロッパとの貿… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 25 4月 1958 盛岡市立高校が加賀野に移転 下小路にあった盛岡市立高校がそれまでの校地を下小路中学校に譲渡し、加賀野に移転することになった。 盛岡市立高校は昭和24年に、盛岡市立女子高校と盛岡市立女子商業高校を合併して発足した女子校であった。 これが共学化するのは、この翌年の昭和34年からである。 共学化を見越した校舎の移転だったのであろう。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 19 4月 1958 岩手でも日食を観測できた 昭和33年4月19日の日食は、Wikipedia仁も独立して項目がある。 日本の南の報では、金環食を観測することができたようである。 これが岩手ではどうだったか・・・ 盛岡でも日食を観測できるとあり、盛岡一高の天文部も、盛岡地方気象台の屋上に陣取って午前中から大張り切りであった。 そして13時11分… 続きを読む
c久慈・九戸郡 19 4月 1958 弘前大学に野辺地分校? 昭和33年4月19日の読売新聞岩手版には、大学合格者情報が載っている。 久慈高校から弘前大学教育学部野辺地分校に二次募集で1名合格したことが報じられている。 弘大って野辺地分校なんてあったんだ・・・ Wikipediaを探してみるとすぐに行き当たった。 (Wikipedia「青森青年師範学校」より)… 続きを読む
l全県 18 4月 1958 中央の押し付けではなく、岩手県の実情に合った道徳教育をしよう(昭和33年4月18日) 昭和33年4月19日の岩手日報と、昭和33年4月20日の読売新聞岩手版より。 岩手県教育委員会は4月18日、指導主事室・県教育研究所・現場教員の三者で、「道徳教育研究機関」を設けることにした。 このことにより、県の実態に即した道徳教育を目指すというもの。 文部省の通達では「毎週1時間道徳教育の時間を… 続きを読む
c久慈・九戸郡 7 2月 1958 種市中・平内中・角浜中が統合案(S33.2.7デーリー東北) 種市町内の種市中学校・平内中学校・角浜中学校の統合計画が持ち上がっていた。 県境に一番近い角浜中学校では、県境を越えて階上町の道仏中学校通っている生徒もおり、賛成することにしたのだという。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 30 1月 1958 岩手県立美術工芸高校・・・? 昭和33年1月30日の読売新聞より。 岩手県内の全日制公立高校の出願状況がまとまったことを報じている。 大まかにみると、市部の名門校が1.5倍前後の高倍率となっている。 そして、郡部の高校は定員割れを起こしている。 ところで、この中で「美術工芸高校」というのが気になる。 30人の定員に16人の出願。… 続きを読む
c久慈・九戸郡 1 1月 1958 久慈郵便局では学生アルバイトが年賀状配達(昭和33年1月1日) 昭和33年1月4日のデーリー東北より。 久慈郵便局では、元日の年賀状配達のアルバイト21名が集合して、局長に激励され市街地各地で配達をスタートした。 高校生18名、大学生3名であったという。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 1 11月 1957 久慈高校にチェーンソー導入(S32.11.1デーリー東北) 久慈高校は大正9年に久慈農林学校として開校し、当時は普通科も農林科も併設していた。 その久慈高校に、チェーンソーを導入したというニュース。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 27 10月 1957 宮古二中の生徒が文通で八戸を紹介(昭和32年10月27日) 昭和32年10月27日のデーリー東北より。 宮古二中の生徒が、全国と文通をしていたが、その中で、八戸市教育委員会にも手紙を送ってきたようで、八戸を水産都市として紹介してどうたらこうたらと言う記事。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 24 10月 1957 久慈高校水産部製造科3年生は引っ張りだこ(昭和32年10月24日) 昭和30年10月24日のデーリー東北より。 久慈高校水産部製造科の3年生は、都内の各会社に引っ張りだこで、全員就職の見込みであったと言う。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 12 10月 1957 久慈で郵便友の会の結成式に東北郵政局長まで臨席(昭和32年10月12日) 昭和32年10月11日のデーリー東北より。 久慈で初めての「郵便友の会」が、久慈高校・久慈中学校・長内中学校を中心に結成されることになり、10月12日13時から久慈中学校で結成式が開催され、東北郵政局長までが臨席するという。 その席上、久慈海岸や小袖海岸などの観光地宣伝もするのだという。 中学生や高… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10 10月 1957 栗拾いで貯めたお金で八戸に修学旅行(昭和32年10月10日) 昭和32年10月12日のデーリー東北より。 種市町の中野小学校では、初めての修学旅行のために、毎日放課後に裏山で栗拾いをして資金を積み立てたのだという。 そして10月10日、6年生43人が八戸へ行き、蕪島、八戸港、ゴードー酒精八戸工場、デーリー東北を見学し、丸美屋デパートでお土産を買っていったのだと… 続きを読む
c久慈・九戸郡 6 10月 1957 久慈小学校でPTA運動会(昭和32年10月6日) 昭和32年10月6日のデーリー東北より。 久慈小学校では児童のではなくPTAの運動会が行われることとなった。 いつものPTAの集まりからは、さほど参加者を期待していなかったがこの日は200名も集まったという。 写真は「ミセス・コンテストレース」であるという。 … 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 22 9月 1957 江刺町の人首小学校がブロック建てで落成(昭和32年9月22日) 昭和32年9月15日の岩手民声新聞より。 江刺町の人首小学校が江刺町では初のブロック建築で落成するという。 9月22日11時から同校で落成式が行われるという。 総工費1020万円で1019坪、普通教室が12で放送室、保健室、教材室、職員室、校長室となっていたという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 22 4月 1957 盛岡市内一周継走は一般が松尾鉱山B、高校は福岡高校が優勝(S32.4.22岩手日報) 盛岡市内1周継走が行われ、一般の部は松尾鉱山Bが、高校の部は福岡高校が優勝したと言う。 … 続きを読む