一関中学の野外教練で卒倒者続出(S4.9.5岩手日報)
1929年9月5日
2025年7月31日
昭和4年9月2日、一関中学校(現・岩手県立一関第一高等学校)では、夏休み明けの始業式が行われた。
しかしこの年、校舎の第1期改築工事は終わっていたものの、内部はまだ未完成で、教室として使用できる状態ではなかった。そのため、やむを得ず毎日2時間にわたる野外教練が行われることになっていた。
始業式では、まず配属将校による軍事教練が20分にわたり行われ、さらに校長の訓示が続いた。ところが、炎天下の中で立ちっぱなしだった生徒たちは次第に体調を崩し、ついには17人が相次いで卒倒。式典は騒然となった。
倒れた生徒はいずれも手当てを受け、まもなく回復したものの、原因は日射病による脳貧血と診断された。
この状況に対し、校長は生徒たちに対してこう訓示した。
「諸君は夏休み中、あまりに不しだらな生活を続けてきたから、こんなことになるのだ」
ところがその直後、皮肉にも校長自身の実子である3年生の男子生徒までもが卒倒してしまう。
この発言と出来事に対し、保護者の間からは激しい非難の声が上がった。「原因は酷暑と無理な教練にあるのに、生徒のせいにするとは何事か」「自分の子どもまで倒れているではないか」と、怒りの矛先は校長の姿勢と発言に向けられた。
昭和初期の学校教育は、軍事教練を重視した厳格な体制下にあったが、この出来事は、指導者の言葉の重みと、子どもたちの健康をどう守るかという教育の本質を問い直すものであった。