山田線開通祝賀ムードの川井村(S8.11.3岩手日報)

――昭和8年、鉄路が村の「距離感」を変える

昭和8年(1933年)11月3日付の岩手日報に、当時の川井村が山田線の延伸をどれほど待ち望んでいたかを伝える記事が載っている。見出しは「山田線に待望の川井村地方の人々」。沿線の人々が、まさに“線路が来る日”を指折り数えている空気が伝わってくる内容だ。

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山田線は、岩手の県都・盛岡と沿岸の拠点・宮古を結ぶ路線として、北上山地を横断するかたちで建設が進められた。閉伊街道(現在の国道106号)に沿うように山間部を抜けていく線形で、盛岡側から段階的に延伸を重ね、最終的に昭和14年(1939年)に全通することになる。
しかし昭和8年当時はまだ途中段階で、山田線は盛岡から平津戸までしか開通していなかった。

そこから先、陸中川井まで延びる――。
この延伸が現実になると聞いた川井村では、歓迎式典の準備が進められ、村を挙げて「待っていました」と迎える体制を整えていたという。鉄道の開業は単なる交通機関の増加ではなく、山間の村にとっては生活圏そのものの拡張を意味した。

記事で興味深いのは、鉄道が通じることで“次の足”も動き出す点である。陸中川井駅が開業すれば、川井から宮古へ向かうバス移動が約1時間半ほどになる見込みだという。そして当時の盛宮自動車は、列車の到着時刻に合わせてバスのダイヤを組む方針だとされる。
つまり、鉄道が終点ではなく「鉄道+バス」で一体の移動が成立し、盛岡方面と宮古方面が現実に結び直されていく――そんな地域交通の組み替えが、すでに構想されていた。

のちに山田線は、並行する国道106号の交通発達やマイカー普及の影響も受け、都市間輸送の主役というより沿線の通学・通勤など“生活の足”としての色彩を強めていく。それを思えば、昭和8年の記事にある「列車に合わせてバスが動く」という発想は、山奥の村の暮らしを現実的に変えるための、当時なりの最適解だったのだろう。

歓迎式典の準備をしながら、村人たちは何を思っていたのか。
荷が運びやすくなる、出稼ぎや通学が楽になる、病人を早く町へ運べる、宮古の情報がもっと早く入る――。鉄道の延伸は、村にとって「時間」と「距離」の感覚を塗り替える出来事だった。山田線の線路が陸中川井へ届くというニュースは、まさに川井村の暮らしの地図が書き換わる合図だったのである。


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