気仙郡で石灰窒素工場の誘致合戦(S12.9.1岩手日報)

昭和12年9月1日発行の岩手日報の紙面を振り返ると、当時の岩手県気仙郡において地域の命運を懸けた壮絶な誘致合戦が繰り広げられていた様子が生々しく伝わってきます。記事の主役となっているのは、現在の住田町にあたる上有住村と、現在の陸前高田市にあたる高田町による東北興業株式会社の石灰窒素工場誘致を巡る対立です。

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東北興業株式会社は、昭和恐慌や度重なる冷害凶作、そして昭和8年の昭和三陸地震という相次ぐ苦難に喘いでいた東北地方を救済し、経済を立て直すために昭和11年10月に国策として設立された特別な会社でした。この会社は東北6県が資本金の半分を出資する官民一体の組織であり、地域に眠る天然資源を産業化して雇用を生み出すという重い使命を帯びていました。そのため、地元に工場が来るか否かは、村や町の将来を左右する死活問題だったのです。

紙面の見出しには、郡内で誘致戦が展開され、上有住と高田が対立していることが大きく報じられています。上有住側は、自らの土地が良質な石灰石の宝庫であり、原料の供給地としてこれ以上ない適地であることを強調しました。たとえ交通の便に多少の難があろうとも、資源の豊かさこそが工場の基盤になるべきだと熱烈な陳情を行っています。これに対して高田側は、交通の利便性や立地条件の良さを武器に、産業の効率性を主張して譲りませんでした。両者の主張は真っ向からぶつかり合い、それぞれが東北興業に対して必死の働きかけを続けていたことが記事から読み取れます。

この記事が掲載された昭和12年という時代背景も忘れてはなりません。7月の盧溝橋事件を経て日中戦争が始まったばかりのこの時期、紙面には産業誘致のニュースと並んで戦時下の緊張感が漂い始めています。和賀産馬組合による軍馬献金の動きや、上閉伊西部での連合軍旗祭の開催といった記述からは、国家総動員体制へと向かう足音が着実に近づいていたことが分かります。当時の人々は、地域の発展という切実な願いと、戦時下という大きな時代のうねりの中で生きていました。

結果として、この時の誘致合戦や東北興業の活動は、その後の東北の産業構造に大きな足跡を残しました。東北興業は戦後に東北開発へと改組され、最終的には昭和61年の民営化を経て、現在の三菱マテリアルの一部へと繋がっていくことになります。80余年前の古新聞に刻まれたこの激しい誘致の記録は、現在の岩手の景色や産業の土台が、当時の人々の並々ならぬ情熱と郷土愛によって築かれようとしていた歴史を物語る貴重な証言といえるでしょう。


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