樺太からの脱出者に聞く樺太の現状(昭和21年7月1日)
昭和21年7月1日の岩手日報より。
終戦後10か月余り、ソ連に占領された南樺太で生活を続け、昭和21年に年が明けてから脱出した宮古市内の30歳の男性に、終戦後の樺太の様子を聞くことにした。
Contents
終戦時の混乱
国境近くの気屯飛行場で警備にあたっていた。
その後敷香まで土工を率いて敷香に行くことを命ぜられた。それが8月19日の朝。
そして21日に敷香に到着。
敷香市内の婦女子はみんな豊原に引き上げていた。
人絹会社の従業員家族3000名が列車を待っていた。
男はとどまって警備することになった。
そのうち知取警備隊との連絡を命ぜられたが、途中でソ連兵に捕まってしまい、死を覚悟したが、ソ連兵は握手を求めてくる。
そのソ連兵の宿舎では「住民は住居に帰れ。違反したら銃殺する」と書いてあったので敷香に戻った。
敷香に戻ると、千草通り・宮通りなどの銀座街はすっかり無くなっていた。
ソ連進駐後の邦人の生活
共産国であるソ連の生活は徹底していた。
女性で5歳以下の子供のある者は労働が免除されるが、それ以外で働きに出ない者は配給を停止される。
男は漁業・土工・建築、女は水産加工など。
米は働く者は男6合、女4合。賃金は男女同じで800円ぐらい。
砂糖も御菓子も豊富で容易に手に入る。
現在では終戦当時の混乱も収まって戦前通りの生活をしている。
各駅の従業員も大半ケ日本人。
戦災が無いのは大泊・知取・真岡。落合・豊原も数十戸を焼いたに過ぎない。
ソ連が一番警戒するのは本国への脱走で独身者は厳重に警戒され、旅行は証明書に記入しなければいけないようになっている。
脱走の動機と決行
生活には困らなかったが、内地の家族を思うといてもたってもいられなかったため。
それで正業には就かず、ブローカーをして転々としていた。
最後は大泊の東の知床村札塔で漁夫に雇われて同志二十数名とひそかに計画を立て、お祭りで警備が緩んでいるのを機に脱出を決行し、3日かけて鬼志別(猿払村)に漂着した。