盛岡公共職業安定所に集まる日雇い労働者(S27.10.4岩手日報)

昭和27年10月4日付の岩手日報には、「朝の生態」というシリーズ記事が掲載されている。
この日のテーマは、盛岡職業安定所に集まる日雇い労働者たちの姿である。

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記事によると、当時の盛岡職安は内丸に本所があり、太田橋や簗川にも支所が設けられていた。
朝のうちに仕事を得られるかどうかが一日の暮らしを左右するため、労働者たちはまだ薄暗いうちから出てくる。
7時40分頃までに行かないと仕事にあぶれてしまうため、彼らの朝はきわめて早い。

また、現場には男性だけでなく女性の姿も多く見られたという。
荷運びや清掃、調理補助など、力仕事ばかりでなく手先を使う仕事もあったからだ。

日雇い労働者の多くは青山町に住んでいたが、当時の青山町は「引き揚げ者の街」と呼ばれていた。
戦後、各地から戻ってきた人々が粗末な住宅に身を寄せ、仕事を求めて職安へと通う。

記事は、まだ冷えびえとした朝の街角に立ち、希望と不安を抱えながら列をなす彼らの姿を通して、
戦後の盛岡に生きる人々のたくましさと哀しみを静かに伝えている。


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