一関一高放火事件(S35.6.15)

昭和35年6月15日午前2時ごろ、一関市中央町にある一関第一高等学校の第二校舎で火災が発生した。延べ約1,200平方メートルが焼失し、捜査の結果、火元は教室付近と推定されたが、失火か放火か断定できず捜査が進められた。この日は同校の期末試験初日だった。

6月17日午前0時半ごろ、同校第一校舎の音楽教室付近から出火し、延べ約885平方メートルが焼失した。この火災も試験直前に発生しており、不審点が多かったため、県警本部が捜査に加わったが、物的証拠が見つからず、第一事件との関連性を含めて捜査が続けられた。

6月30日午後10時半ごろ、一関第一高等学校第三校舎の便所や柔道室付近で放火未遂事件が発生した。油を浸した布や新聞紙が使われたが、早期発見により大事には至らなかった。この際、現場から黒ズボンや読売新聞など特徴的な物品が押収された。

7月1日午前2時50分ごろ、一関第一高等学校近くの磐井川対岸にある民家の物置で火災が発生した。藁や板くずが燃えたが、早期発見で未遂に終わった。現場が被疑者宅近辺であったことや関連物品が押収されたことが、事件解決の糸口となった。

8月13日、捜査本部は、これまでの事件の特徴や押収物、行動記録などをもとに、一関第一高等学校2年生の少年を容疑者として浮上させた。彼は英語と数学が不得意で試験を嫌い、事件発生時に特定の行動が確認されていたほか、自宅周辺で押収された証拠物品が彼のものと一致していた。

8月25日、少年の家を捜索した結果、現場に残されていた遺留物と一致する大島紬の布片や読売新聞が発見され、少年はその場で通常逮捕された。当初は否認していたが、証拠を突きつけられたことで犯行を自供した。

少年は6月15日、17日、30日に一関第一高等学校への放火を行ったと供述した。動機は、中学時代からの試験恐怖症や、高校入学後に英語教師から厳しい発言を受けたこと、試験への不安から「学校を焼きたい」という衝動に駆られたことだった。また、自身の行為を隠すために隣家への放火も計画的に行ったと語った。

昭和36年1月24日、少年は盛岡家庭裁判所一関支部において医療少年院送りの審判を受けた。この事件は、少年の成績不振や精神的負担が原因となった稀に見る事件として大きな社会的反響を呼んだ。


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