花巻空港開港式(S39.3.27)

昭和39年3月27日、岩手県民が長年待ち望んだ花巻空港の開港式が盛大に執り行われました。この日、会場には千田正岩手県知事をはじめ、八重樫花巻市長、県選出の国会議員、県議会議員など、岩手県の政財界から約700名もの要人が列席しました。開港式そのものはこの3月27日に挙行されましたが、実際に旅客を乗せた1番機が羽田から飛来したのは、路線の開設日である4月1日のことでした。

4月1日の1番機到着時はあいにくの小雨模様でしたが、新空港の誕生を一目見ようと近在から3000人を超える見物客が詰めかけ、空港ビルの屋上や正面玄関は傘を差して到着を待つ人々で埋め尽くされました。午前11時2分、予定より8分早く東京からの空の使者であるコンベア240型機が上空に姿を現すと、地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こりました。ミス花巻空港に選ばれた3名の女性から機長へ花束が贈呈され、岩手が陸の孤島から脱却し、経済や文化の交流拠点として羽ばたく歴史的な瞬間を祝いました。

しかし、この華やかな就航の舞台裏では、当時の日本の航空業界を揺るがす深刻な経営問題と政治的判断が交錯していました。当時、地方路線の運航を担っていた北日本航空、日東航空、富士航空の3社は慢性的な赤字に苦しんでおり、さらに航空事故が相次いでいたことから、安全性の確保が急務となっていました。時の運輸省は、地方の小規模な航空会社が乱立する状態を解消するため、合併による事業内容の改善を強く指導していました。特に、経営再建のために収益の見込める幹線への参入を希望していた各社に対し、当時の運輸大臣は合併を条件として突きつけ、業界の再編を強硬に迫っていたのです。

この航空業界の再編劇は、花巻空港の正式な認可スケジュールに直接的な影響を及ぼしました。4月1日の1番機就航までに、肝心の北日本航空、日東航空、富士航空の3社合併が完了していませんでした。運輸省の認可が下りないまま当日を迎えたため、4月1日のフライトはやむなく臨時団体貸切というチャーター便扱いで運航されることになりました。その後、4月15日になってようやく3社が合併して日本国内航空が設立され、翌4月16日に正式な認可が下りたことで、名実ともに定期便としての運航が開始されました。この日本国内航空は後に東亜航空と合併して東亜国内航空、さらには日本エアシステムへと変遷し、現在の日本航空へと繋がっていくことになります。

当時の資料には、東京までわずか1時間30分で結ばれたことについて、自動車で盛岡から水沢へ行くのと変わらない時間であると綴られており、県民が抱いた衝撃と期待の大きさが伺えます。花巻空港の誕生は、単なる交通網の整備という側面だけでなく、戦後の航空史における苦難の経営統合や、安全性を最優先した国の指導という激動の背景を経て実現した、岩手県にとって極めて重みのある出来事でした。


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