106急行が運行開始(S53.11.1)
国道106号の改良工事が、昭和53年秋に完了した。着工から実に十二年、国と県あわせて二百三十八億円という当時としては破格の巨費が投じられた大事業だった。宮古―盛岡間は、十九のトンネルと四十一の橋によって結ばれ、距離は約百八・五キロから九十五・九キロへと短縮された。それ以上に大きかったのは時間距離の変化で、改良前は四時間以上を要した行程が、一時間五十分で結ばれるようになった。「宮古から盛岡まで二時間弱」という感覚は、沿岸と内陸の関係を一変させるものだった。
国道106号は、宮古市を起点に盛岡へ至る、太平洋岸と内陸部を結ぶ岩手県の骨格道路である。この道が盛岡で国道46号と連結し、106号と46号は太平洋側と日本海側を横断する北日本屈指の大動脈を形成している。さらに東北自動車道と“直結”したことで、その役割は県内にとどまらず、北東北と首都圏を結ぶ広域交通の要として一段と重要性を増した。
改良工事は昭和44年に着手された。当初は曲がりくねった旧国道を順次整備する計画だったが、最終的にはトンネルと橋梁を多用し、険しい北上山系を直線的に貫く構想へと転換された。新たに建設されたトンネルは十九本(延長約五・六キロ)、橋梁は四十一か所(同三・四キロ)。全線の一割近くが橋とトンネルという難工事の連続だった。
なかでも最後まで残ったのが、下閉伊郡川井村の小滝―箱石間である。旧道の十六キロを十五キロに短縮した区間だが、橋とトンネルが連続し、新生106号の“難産”を象徴する区間となった。ここだけで工事費は八十五億円を要している。距離の短縮はわずかでも、時間距離の劇的な改善がもたらした効果は計り知れなかった。
経済的な波及効果が最も顕著だったのは、流通・運輸分野である。宮古魚市場に水揚げされる年間約三万トンの魚は、かつては国鉄貨車で二、三日かけて東京へ送られ、鮮度低下による買いたたきも避けられなかった。車両の大型化や保冷技術の進歩によりトラック輸送が増えていたが、改良開通によってその流れは決定的となった。東北自動車道と直結したことで、宮古を出た魚が翌日の東京市場の競りに間に合うようになったのである。
魚に限らず、野菜や牛乳といった生鮮食品の販路も大きく広がった。標高七百メートルを超える高冷地で畑作に苦しんでいた川井村区界地区では、ダイコンやレタス、キャベツ、ハクサイなどの高原野菜栽培に乗り出した。田野畑村では国道106号や445号を活用し、牛乳を毎日東京へ出荷、加工原料中心だった経営から市乳販売へと転換し、増収の道を切り開いている。
交通面での象徴的な出来事が、昭和53年11月1日に運行を開始した岩手県北自動車の急行バス「106急行」だった。宮古―盛岡間を一日六往復、所要時間は二時間十分。国鉄山田線の急行列車とほぼ同等で、運賃も千六百円と同額だった。停留所は多く、ダイヤもきめ細かく設定され、山田線の“すき間”を埋める存在となった。その一方で、山田線はバスやマイカーに利用者を奪われ、いわゆる「国鉄離れ」に拍車がかかった形でもあった。
商圏の変化も深刻だった。宮古周辺が盛岡の二時間圏に入ったことで、宮古商店街には盛岡志向への警戒感が広がった。宮古市内の年間消費購買力は約三百億円とされ、その二割が盛岡へ流出しているといわれる。流出に歯止めをかけようとしていた矢先の全線開通だけに、地元には強い危機感が漂った。一方で“逆流”を狙った魅力ある商店街づくりも始まったが、効果が現れるまでには時間がかかりそうだと見られていた。
高速化に伴う交通事故の増加を防ぐため、県警本部も対策を強化した。小中学校周辺では時速四十キロ、カーブやトンネルが連なる見通しの悪い区間では五十キロに制限し、事故防止に力が注がれた。
全線開通を祝う記念式典は、昭和53年10月31日、川井村明石地内で行われた。招待者三百五十人が出席し、秋晴れの下、二百六台の乗用車やバスが祝賀会場の川井中学校まで十三キロをパレードした。
国道106号の歴史は古い。その原点は宝暦5年(1755年)、牧庵鞭牛和尚が北上山系の絶壁にノミを打ち込んだことに始まるという。藩政時代、盛岡―宮古間の旅は片道三日を要した。大正2年には乗合自動車が走り、六時間で結ばれるようになったことが「交通革新」として人々を驚かせた。
しかし戦後も道は試練にさらされた。昭和22年のカスリーン台風、23年のアイオン台風で寸断され、交通はたびたび遮断された。昭和28年に二級国道、38年に一級国道へ昇格し、44年に一般国道106号と改称されたものの、急勾配と急カーブ、狭隘区間が連続し、大型車の通行は困難だった。区界付近は積雪も多く、冬期には敬遠されがちな道路だった。
沿岸市町村から整備を求める声が高まり、昭和45年の岩手国体を契機に舗装が進み、ついに改良工事が完成した。国道106号は、この全線改良によって、名実ともに一級国道としての役割を担う存在となったのである。