訃報:曽野綾子さん
こんにちは、みなさん。最近、作家の曽野綾子さんが亡くなったというニュースが話題になりましたね。彼女といえば、数々の小説やエッセイで知られる一方、生前にはアパルトヘイトを美化する発言や弱者への辛辣な言葉で物議を醸したことでも有名です。特に2015年の産経新聞コラムで「移民を受け入れつつ人種で居住区を分けるべき」と主張し、南アフリカ大使からも抗議を受けたことは記憶に新しいですよね。そんな彼女の言動を見ていると、ふと「ウィークネスフォビア(弱さへの恐怖)」というキーワードが浮かびます。今回は、曽野さんのようなケースや、南ベトナムのマダム・ヌー(トラン・レ・スアン)が語ったとされる「人間バーベキュー」発言に通じる、弱者への強い拒否感を持つ女性に見られる心理的機序を、ゆるっと考察してみたいと思います。
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曽野綾子とアパルトヘイト:弱者への冷たい視線
曽野綾子さんの発言で特に印象的だったのは、アパルトヘイトを「差別ではなく区別」と擁護したこと。彼女は「人種を分けて住む方がいい」と言い切り、批判が殺到しても「撤回する気はない」とラジオで反論しました。さらに、高齢者に対して「生きる権利を若者に譲るべき」「長生きしたいは傲慢」と語ったり、庶民を「乞食」や「妾」と見下すような言葉を連発したり。こういった発言からは、弱い立場の人への共感よりも、「弱さそのもの」への嫌悪感が滲み出ているように感じます。彼女のカトリック信仰や保守的な思想が背景にあるとはいえ、なぜここまで弱者に厳しいのか、気になりますよね。
マダム・ヌーと「人間バーベキュー」:極端な強さの演出
一方、南ベトナムのマダム・ヌー( Ngo Dinh Nhuの妻)は、1963年に仏教僧の焼身自殺を「人間バーベキュー」と嘲笑ったことで悪名高いです。彼女は権力者の妻として豪華な暮らしを誇示し、弱者や抵抗者を徹底的に見下す態度を取っていました。この発言も、単なる冷酷さ以上に、「弱さ」を許せない、ある種の強迫観念のようなものが垣間見えます。彼女にとって、自己犠牲や抵抗の象徴である僧侶の行動は、自身の強さを脅かす「弱さ」の表れだったのかもしれません。
ウィークネスフォビアとは?その心理的機序を紐解く
さて、ここでいう「ウィークネスフォビア」とは、心理学で正式に定義された用語ではないものの、「弱さへの過剰な恐怖や嫌悪」を指す概念として使われることがあります。曽野さんやマダム・ヌーのようなケースでは、以下のような心理的機序が働いている可能性があります。
自己投影と防衛機制
弱者への攻撃的な態度は、実は自分の中にある「弱さへの恐れ」の裏返しだったりします。心理学でいう「投影」という防衛機制ですね。自分が弱くなることを極端に恐れるあまり、弱い人を目の敵にしてしまう。曽野さんの「高齢者は死ぬ義務がある」発言なんて、まさに自分が老いや死に直面する恐怖を他人に押し付けているようにも見えます。
優越感の維持
弱者を見下すことで、自分の強さや価値を再確認するパターンです。マダム・ヌーは権力者の妻としての地位を誇示するために、弱い者を嘲笑うことで自己の優位性を保とうとしたのかもしれません。曽野さんも、知識人や成功者としてのアイデンティティを、弱者への批判で補強していた可能性があります。
コントロールへの執着
弱さは予測不能でコントロールしにくいもの。彼女たちのような強い女性は、秩序やルールを重んじる傾向があり、弱者がその枠を乱すことに我慢ならなかったのかも。曽野さんの「人種で分けるべき」という発言は、混沌を嫌い、全てを整然と管理したい欲求の表れとも解釈できます。
文化的・時代的背景
曽野さんは戦後日本の価値観の中で育ち、マダム・ヌーは植民地支配や冷戦の混乱期に生きていました。どちらも「強さ」が生き残りの条件とされた時代。弱さへの嫌悪が、社会的な刷り込みとして強化された側面もあるかもしれません。
女性であることの影響はあるのか?
面白いのは、こうしたウィークネスフォビアが女性に現れるとき、男性とは少し違うニュアンスがある点です。歴史的に、女性は「弱い」とみなされがちだった分、強さを証明する必要に駆られることが多かった。曽野さんやマダム・ヌーが極端に強硬な態度を取ったのも、女性としての立場を守るための過剰反応だった可能性はあります。社会が求める「強い女性像」に縛られ、弱さへの拒否感がより強まったのかもしれませんね。
まとめ:弱さを受け入れる難しさ
曽野綾子さんのアパルトヘイト美化発言や、マダム・ヌーの人間バーベキュー発言は、単なるヘイトを超えて、「弱さ」というものへの深い恐怖や嫌悪を映し出しているように思います。その心理的機序は、自己防衛や優越感、コントロール欲求が複雑に絡み合ったもの。彼女たちを見ていると、弱さを受け入れることって、実はすごく難しいんだなと改めて感じます。私たちも、日常の中で「弱いもの」を遠ざけていないか、少し振り返ってみるきっかけになるかもしれませんね。
みなさんはどう思いますか?コメントでぜひ教えてください!それでは、また次回のブログでお会いしましょう~。