水沢町のラジオ熱(S8.11.3岩手日報)
昭和8年11月3日付の『岩手日報』は、水沢町におけるラジオ聴取者の急増を伝えている。記事によれば、この1年ほどの間に、町内のラジオ聴取世帯は約150戸から400戸へと一気に増えたという。

この時代、水沢町にはまだ放送局はなく、盛岡放送局(JOQG)が開局するのは昭和13年、5年も先のことである。水沢町の人々は、主に仙台放送局から届く電波を頼りに、ニュースや音楽、講談や浪花節といった番組に耳を傾けていた。
ラジオは単なる娯楽ではなかった。新聞よりも早く情報が届き、遠く東京や世界の出来事を「同時」に知ることができる、まさに最先端の文明の利器だった。その魅力は強く、多少の無理をしてでも聴こうとする人々が後を絶たなかった。
記事が問題として取り上げているのは、そうした熱気の裏側で起きていた「不正」である。中には「試験だ」と称して正式な手続きを取らず、さらには電力を無断で使用してラジオを動かす者まで現れたという。ラジオ本体だけでなく、電気そのものもまだ十分に行き渡っていない時代ならではの出来事である。
当時、日本放送協会(NHK)はすでに受信契約制度を採っており、ラジオを設置した者は聴取契約を結び、聴取料を納めることが原則とされていた。しかし水沢町には放送協会の窓口はなく、実務上の窓口を担っていたのは水沢郵便局だった。郵便・電信・電話・放送はいずれも逓信省の所管であり、地方において郵便局が放送協会の業務を代行するのは、ごく自然な体制だった。
ラジオの普及が急速に進む中で、こうした「試験受信」や無断使用は看過できない問題となっていく。記事では、今後は不正が見つかり次第、告発するという厳しい姿勢に転じたことが伝えられている。これは単なる道徳の問題ではなく、逓信行政の秩序を守るという意味合いも強かったと考えられる。
盛岡に放送局がなく、仙台の電波を遠く受信しながら、郵便局で契約を行い、時には制度の網をすり抜けようとする者も現れる――。昭和8年の水沢町の一件は、ラジオという新しいメディアが地方社会に浸透していく過程で生じた、制度と生活感覚のズレを生々しく伝えている。
それは同時に、逓信省という国家の仕組みが、最新の技術とともに地方の町へ入り込んでいった瞬間の記録でもあった。