盛岡駅前再開発計画の原案(S48.1.18)
昭和48年1月18日、盛岡駅前の未来を決定づける再開発基本計画の中間報告原案が発表されました。現在の盛岡駅前を形作る人工地盤や街区の構想は、まさにこの日にその産声を上げたと言えます。
当時の盛岡駅は、東北新幹線の開業を見据え、乗降客が将来的に1日5万人にまで倍増すると予測されていました。その混雑を解消し、近代的な都市の玄関口を造り上げるための切り札が人工地盤による歩車分離の導入でした。駅舎から街へと続く2階部分を歩行者のための広場とし、その下の地上部分をバスやタクシーの交通拠点とする、当時としては極めてダイナミックな都市設計が描かれていたのです。また、この人工地盤の下には、600台を収容する巨大な地下駐車場と、そこへ通じる地下道路の建設もセットで計画されていました。
この計画において何より特筆すべきは、経済性よりも盛岡固有の景観を優先した決断です。再開発に伴い、駅前の地価は1平方メートルあたり250万円という驚くべき高騰を見せていました。土地の価値が上がれば高いビルを建てて収益を確保するのが通例ですが、策定委員会は、盛岡らしさと人間優先を強調しました。岩手山、姫神山、そして東側にそびえる岩山までもが駅前からしっかり見えるよう、ホテル以外の建物の高さを5階から8階程度に制限するという、極めて文化的な方針を打ち出したのです。
さらに、南側のC街区には現在の視点から見ても驚くような先進的な構想が盛り込まれていました。雫石町御所付近の地熱発電所からエネルギーを誘導し、地域冷暖房を行う国際ホテルの建設案です。岩手の豊かな自然資源を都市のエネルギー源として活用しようとする、壮大なエコシティのビジョンが50年前のこの日にすでに存在していました。
もちろん、この原案がすべて順風満帆に受け入れられたわけではありません。戦後の苦労を経てようやく生活を立て直した地元住民からは、再度の借金や生活環境の変化に対する切実な不安の声が上がっていました。当時の記事からは、理想の街づくりと、そこで生きる人々の現実との間で揺れ動く生々しい葛藤が伝わってきます。
昭和48年1月18日の原案発表から50年余りが過ぎました。現在私たちが人工地盤の上で空を仰ぎ、岩手山や岩山の稜線を当たり前のように眺められるのは、あの時、地価高騰や反対意見という困難に直面しながらも、盛岡の景色を守り抜こうと知恵を絞った先人たちの意志があったからに他なりません。